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生きてるうちに言いたいことを言っておく
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シュワキマセリ
 キリストが降臨した。俺の体に。
 と言っても、そんなこと誰も信じるはずがない。
 でも現在進行形で俺の中にはキリストと名乗る人格が存在した。
「いい加減、俺の中から出ていってくれないか?」
『出ていく? 私と君は一心同体。出ていくということはすなわち君も肉体を捨てるというのか』
 なぜそうなる。
 俺は駅前の綺麗に飾り付けされたクリスマスツリーの下で一人頭を抱えた。
 頭の中で自分とは違う声が聞こえるというだけでも厄介な問題なのに、俺の体は今こいつのせいでとんでもないことになっている。
「キリストだかなんだか知らないけど、はやく俺の体を元に戻してくれ」
 今日は俺にとってとても大事な日だった。奇跡的に彼女が出来て、さらにデートの約束まで取り付けた。あとすることといえば、ラブホで彼女とセックスするのみ。
 だがこの体のままでは……。 
『ほう。奇跡を信じるか。君は実に信心深いクリスチャンだな』
 また人の心を勝手に読んだみたいだ。実に悪趣味。プライベートもくそもない。
「はぁ……」
 俺はため息をついて、その場にしゃがみこんだ。
 そして、こうなってしまった経緯を軽く思い出す。
 何を言っても、聞き入れないこのおっさん(仮)は昨日の夕方近く突然降臨した。

 それは俺がやっとのことで彼女とのクリスマスデートの約束を取り付けた日のことだった。
 浮かれていた俺は、家に帰ってさっそくオナニーの準備にとりかかった。来る実践に備え、俺の息子もはち切れんばかりの様相を呈していた。
 ここで我慢するのも男だが、あえて発散し、来るべき日に備えて訓練するのもまた男だと思い、息子を取り出した俺は軽く左手をソレに添えた。
 そして光りだす息子。意味もわからずただ呆ける俺。
 数瞬後、俺は下半身丸出しの姿で仰向けに倒れていた。
「なんだ今のは……」
 俺は頭を抱えつつ、起き上がるとまず己の下半身の無事を確認し……
「なんじゃこりゃあああああああああああ!」
 息子が消えていた。キレイサッパリ俺の股間から息子という物体(玉周辺含む)だけが消失していた。
 代わりにあるのはまっ平らな大地。もしかしたら割れ目と呼ばれるソレがそこに鎮座し、俺は軽くその大地に触れてみる。
「んぁ!」
 変な声が出た。これはまさか……
『神よ。来るべき日がやってきた。私は再びこの地に復活し、諸君らの救済を――ん?』
「ん?」
 なんだ今のは。頭の奥から響いてくる。
『はて。私はどこに』
「うわあああああああああ。頭の中から変な声が聞こえるうううううううう!」
 訳がわからなくなって、俺は部屋の中をむちゃくちゃに走りまわった。もちろん下半身は丸出しだ。
 およそ五分ぐらい走りまわって、息切れと同時にその場にへたり込んだ。
『あぁ父よ。私にこのような試練をお与えなさるとは……』
「うおおおい……おおお、お前、誰だよ」
 錯乱していたのかもしれない。気づいたら、自分の中から聞こえる声に語りかけていた。
『ほう。人の子よ。私の声が聞こえるか。なら話は早い。私とともにある場所に行って欲しい。君はどうやら私の依代として選ばれた聖なる子らしい』
「俺はお前に誰だって聞いたんだよ! まず名乗れよ!」
 俺の気持ちをまるで無視しして話を進めていくその声に堪忍袋の緒が切れた。
 傍から見たらただのひとりごとなのかもしれない。それでも俺は怒鳴らずにはおれなかった。
『ふむ。申し訳ない。私の名はキリスト。イエス・キリストだ』
 キリスト? 何言ってんだ。まるで意味が分からない。なんでキリストが俺の中に。っていうかそもそもキリストって何した人だっけ。
「キリストだか何だか、知らないが、早いところ俺から出て行ってくれないか。というかまさか俺の息子が消えたこととあんたが俺の中に現れたことは関係してるのか?」
『息子? はて……私は息子を生んだ記憶はないが……まさか、父が母を処女のまま孕ませたように、私も気づかぬうちに誰かを孕ませていたというのだろうか、だとしたら素晴らしい。私はまた一歩神に近づいたということか』
「…………」
 なんだ……何を言ってるんだこのおっさんは……やべぇ……まじでやべぇよ。
 得体のしれない恐怖が体中を包み込むのがわかった。
 せっかく彼女とデートの約束を取り付けたのに、こいつがいちゃ厄介だ。一刻もはやく俺の中から追い出さなくてはいけない。
 俺の思考はその一点に見事に集約された。
 咄嗟の判断としてはとても優秀だろう。
 このまま錯乱して両親とかにバレたら病院送りとかにされかねない。
 それだけは絶対に阻止せねばならない。
 なぜなら、明日はクリスマス。そして、俺の初デートの日だ。クリスマスにカップルがセックスをする確率は七〇%以上(俺調べ)
 ここ日本において、もはやクリスマスといえばセックスの代名詞でさえあると言っても過言ではない。
 これまで幾度と無く失敗に次ぐ失敗を重ね、やっとの思いでつかんだこのチャンスを、突然現れた謎のおっさんに潰されてたまるか。
 何しろ俺は童貞だ。今年こそ童貞を卒業する最大のチャンスなんだ。
 このビッグチャンス。たとえどんな邪魔が入ろうと俺は決して屈しない。
 そう決心すると、何だかやれるような気がしてきた。
「よぉーし! セックスするぞー!」
 人間、明確な目標が出来ると、前向きになれるようだ。
『あーすまない。さっき息子がどうとか言っていたが、アレか? ペニスのことか。いやぁーうっかりしていた。私が依代とする体は基本的に性交ができないよう父の計らいで作り変えられるのだ。……かくいう私も童貞でね』
「な……ん……だ……と」
 何を言っている。いやたしかに先ほど自分で確かめたじゃないか。
 そうだ。男が女とセックスするには息子、いやもうそんな曖昧な表現はよそう。そう、ちんこが必要だ。なのに今の俺にはちんこがない。
 しまった。こんな単純な問題を見落としていたとは……
『だからまぁなんだ……私の目的が達成されるまで君にセックスは不可能だってことだ。本当にすまない。でも君とならこの試練も乗り越えられそうだ。一緒に頑張ろう!』
「ふざけんなぁあああああああああああああああああああああああああああ!」

 そんなことがあって、現在に至る。
 俺のちんこを取り戻すには、キリストの目的を達成しなくてはならない。
「で? 俺はどうすればいい? そういや、どっか行きたいところがあるんだったか……」
 彼女との待ち合わせの時間まであと五時間ちょっと。とにかく、なんとかしてキリストを俺の中から追い出さなければ、俺のちんこは戻ってこない。
 イコールセックスできないという現実が俺に押し寄せる。
 想像してみてほしい。いい雰囲気で彼女とデートして、夜も更けてきたら、二人恥ずかしそうに肩を寄せ合いながら、ラブホテル街へ。
 そして、二人で決めた部屋で、しっぽりとムードを高めたあと、いざ服を脱ぐと、俺にはちんこがない。
 それをみた彼女はどう思うだろう。
 三つのパターンを考えてみた。
 一つ、「女の子だったの! 私を騙したのね!」と言われフラれる。
 二つ、「なにこれ! どういうことか説明して!」と言われフラれる。
 三つ、「きゃはははは! きもーい! さいてー」と言われフラれる。
「駄目だ! 結局フラれるという結論しかない!」
 さきほどからクリスマスツリーの下で奇妙な動きをする俺に訝しげな視線が刺さる。
 改めて周りを見渡すと、いつの間にか結構な人がこのクリスマスツリーの下に集まってきていた。
 きっとつがいとの待ち合わせなんだろう。俺も本当ならその一人になって今頃わくわくそわそわ彼女を待っていたんだろうが……。
『むっ……なんだこの気配……まずいぞ。悪魔の気配がする』
「はいはい。そんなのはいいからはやくお前の目的地を教えろって……」
 ほんとにこのキリストって奴は一体何を考えてるのか。
 向こうは俺の心を読めるのに、こっちはまったく相手の考えてることが読めない。これほど不公平かつ理不尽なことがあってたまるか。
 神がどうとか父がどうとか知ったこっちゃねぇ。はやく俺を元に――
 視線を上げると、そこにミニスカサンタのコスをした綺麗なお姉さんがいた。なぜかしっぽも生えてる。かわいいオプションだ。
「くっそー。しくった。我が迷子になってしまうとは……はやく翔太のところに戻らねば……また我が馬鹿にされてしまう……」
 なんだか焦った様子で、辺りをキョロキョロ見渡してるそのお姉さんに、俺は話しかけてみようと近づいてみる。
『やめるんだ君。そやつに近づいてはいけない。あの者はおそらくこの下界の者ではない。悪魔と呼ばれる類の存在……しかもかなり強力な悪魔だ……』
 おいおい今度は中二病発症かよこのおっさん。いい加減にしてくれよ。どうみてもただのコスプレだろう。
 でもここからいきなりキリストVS悪魔なんて超展開になったらそれはそれでたしかに洒落にならないな。
 俺は渋々、おっさんの指示に従う事にした。すると、すぐ彼女の前に小さな王子様が現れた。
「サンタのおねぇーちゃーん! もう探したよ……どこいってたの?」
「翔太っ! 何度も言っているが、我はサンタではなくサタンだと……」
「いいから。はやく行こ! ケーキなくなっちゃうよぉ!」
「あ……あぁ……分かったよ……もぅ」
 そうして、そのサンタコスお姉さんと小さな王子様は商店街の方へ消えていった。
 まぁ目の保養にはなったな。あの乳と尻はなかなか拝めるものではない。
『消えたか……』
「で? 俺はどこへ行けばいいんだ?」
 話を元に戻す。キリストがいう目的地とは一体どこなのか、それをさっさと聞き出して、こいつとはおさらばしたい。
『そうであったな。とりあえずゴルゴタの丘に向かってくれ。私はそこでもう一度復活の儀式を行う』
「ゴルゴタの丘ね。了解」
 俺はポケットからスマホを取り出して、ゴルゴタの丘を検索する。このへんにそういう名前の丘があったかなと思いながら、ちまちま検索してたら、そんな丘はこの近くにはおろか、日本にすら存在しないことに驚愕した。
「おい。おっさん。そんな丘。ここにはないらしいぞ」
 俺は恐る恐るキリストに確認してみる。
『な……ん……だ……と』
 昨日の俺とまったく同じ反応。
 まさかこのおっさんも俺と一緒で、突然の異常事態に困っているのではないか。
 昨日はあまりのことに自分のことしか考えてなかったが、こうして冷静になってみると、本当に大変なのはキリストのおっさんのほうではないのか。
『どういうことだ。そんなはずは……父は一体私に何をしろとおっしゃっているのか……』
「…………」
 俺が思っている以上に困惑している様子だ。よく考えれば分かることだった。俺からしてみれば、ただ自分の中から別の声が聞こえるだけで、他に支障はないが、キリストにしてみれば、自由に動かせる体はなく、ここがどこで、何があるのかさえまったく感知できないのではないか。
 そう考えると、背筋がぞっとした。
『いやすまない。取り乱してしまった。君が不安に思うことはない。そもそも私がしっかりとしなければいけなかったのだ。試練とは本来そういうもの。何が起こっても不思議はないのだ』
「キリスト……」
 また俺の心を読んだのか。でもこいつは自分より俺の心配を……。
 自分のほうがよっぽど異常な状況であるにも関わらず、俺のことを……。
「よっしゃ。ゴルゴタの丘はないかもしれないが、おっさんにとっては居心地の良い場所がある。とりあえずそこに行ってみよう。もしかしたらそこで何か情報が手に入るかもしれない」
『君……』
「そうなると善は急げだ。さぁ出発!」
 俺は意気揚々と教会を目指した。キリストといえば、教会。単純な発想だが、きっとそこに何かヒントがあるかもしれない。

 この街でもひときわ大きな教会の門の前に立つと、その荘厳さに若干気圧されてしまった。
 門の前で一人立ち尽くしていると、教会の神父さんらしき人がこちらに向かって歩いてくるのが分かった。
「主の導きによって、来られたのですね。どうぞ。中へ。今からちょうど聖歌も歌われます」
「は、はぁ……」
 普段なら近づくことすらおろか、そんな勧誘がきたら颯爽と逃げ出すかする俺だったが、これもキリストのためと思い、神父に促されるまま、教会の門をくぐった。
 門をくぐった瞬間、真っ白な衣装に身を包んで、一生懸命に歌う子供たちの姿が目に飛び込んできた。
 周りをよくみるとその親と思わしき人たちが、礼拝堂の長椅子に綺麗に並んで座っている。
 普段あまり見ることのないその光景に戸惑いつつも、俺は自分の中にいるキリストの存在を意識する。
『…………』
 言葉は発しなかったが、息を飲むのが分かった。
 どうやらそれなりに喜んでもらえてるようだ。これで何かの解決になればいいが、と俺は適当な椅子に腰掛けて、聖歌が終わるまで静かに座っていた。
 しばらくして、人がまばらになった頃、俺はさきほど案内してくれた、神父さんの元へ駆け寄った。
「あ、あの、少しお聞きしたいことがあるんですが……」
「何でしょう。何でも聞いてください。今日は主の聖誕祭。迷える子たちを導くのは我々の使命でもあります。主はいつも私達をみているのです」
「は……はぁ……」
 さすがにその主ってやつが自分の中にいるよなんて言えるわけもなく、俺は無難にゴルゴタの丘について聞いてみた。
「残念ながらゴルゴタの丘というのは、はっきりとした場所が分かっていないんです。それらしき場所ならばいくつも存在するのですが。果たしてその場所が本当にゴルゴタの丘であるのかまでは現状分かっていません」
「そうですか……」
 最近のネットの検索は優秀だ。やはりゴルゴタの丘なんて存在しないのだろうか。
 ぬか喜びさせてしまったなと、俺はキリストに対して軽く罪悪感みたいなものを感じた。
『何。そのことならもういい。私をこんな素晴らしいところに連れてきてもらったのだ。どうやら君はあまり神を信じていないようだが、それでも私のためにここに来てくれたというだけでも、私にとっては素晴らしきこと。本当にありがとう。やはり君に降臨したのは運命だったのかもしれない』
 そう言ってキリストはしばらく俺と一緒に教会の中を歩きまわった。
 ほどなくして、俺と彼女の待ち合わせ時間が迫り、俺は徐に教会を出ようとする。
『すまない。本当なら君とはここで別れて、体を元に戻してあげたいのだが、どうやら私の試練はまだ達成されていないようだ』
「気にするなよ。もういいよ。今日はセックスは諦めよう」
『ありがとう。君に出会えてよかった』
 キリストがそんなことを言う。
 俺は恥ずかしくなって、聞こえてないフリをしてしまった。
 教会の厳かな雰囲気に飲まれたのかもしれない。今の俺ならどんな誘惑にも打ち勝てる気がする。
 俺は意気揚々と教会の門を飛び出した。

「俺とセックスしてくれ! たのむ!」
「無理よ! 死んでしまうわ!」
 教会の前で言い争う男女。どうやら何か揉めてるようだが、その会話は果てしなく俗世のしがらみに囚われていた。
 煩悩を振り捨てた俺にのしかかる、性なる言葉。
「セックスしなくても俺は死ぬ! だから君とセックスして死ねるなら本望だ!」
「私はもう誰も失いたくない!」
 どうしてセックスごときで生死の問題が浮上するのか。それとも何か精子とかけたギャグなのか。
『あの者たちは何を揉めているのだ』
「さぁ……セックスしたら死ぬとか死なないとか……」
『ふむ。たしかにセックスは人間にとって最も罪深いものかもしれない』
 キリストがまた良い感じに誤解してるので、俺はそのまま足早にその場をあとにした。
 これ以上厄介ごとには巻き込まれたくない。

 何の収穫もなく、駅前まで戻ってくるとさっきよりも明らかに人が増えて、もはや何が何やら状態である。
 みんな浮かれ気分を隠そうとすらせず、これから始まるであろう夜の楽しみに向けて、熱気がむんむんだ。
 気温はどんどん下がっているというに彼らの体温はぐんぐん上昇していた。
「あ、いたいた。もう探したじゃない」
 見知った顔が俺の前にとことこと駆け寄ってくる。彼女だ。
「ご、ごめん。ちょっと知らない人に道を聞かれて案内してたんだ」
 俺は咄嗟に嘘をつく。まぁそれ以上に後ろめたいことがあるにはあるんだけども、そんなこと言っても信じてもらえるかどうか怪しいし、ここは黙っておこう。
「へぇーすごいじゃん。クリスマスだからみんな浮かれてるのに、あんたは人助けね。やっぱ私の彼氏はいい男ね」
 ふふんと胸を揺らす彼女。俺はそのふくよかなバストを揉みしだきたい衝動に駆られたがグッと我慢する。
「よ、よし。まずはどっか食べにいこうか」
「賛成ー! おいしいもの食べたいね」
 彼女が俺の右腕に自然と腕を絡めてくる。こんな経験ができるなんて、やはりクリスマスは最高だ。
 俺のテンションは否が応でも上がっていった。
 食事が終わると、近くの商店街でやってるイルミネーションを見て、そのあとはまた軽くオシャレなカフェで一息をつき、再び商店街で彼女とクリスマスプレゼントをお互いに買いあったりした。
 幸せな時間はあっとう言う間に過ぎ去っていった。
 その間、俺の中のキリストは始終無言だったが、どうやら気を使ってるらしいことは小さな息遣いから感じ取れた。
 俺は彼女とキリストの板ばさみ状態でどちらを優先すべきが悩んでいた。
「どうしたの? ちょくちょく上の空になってるみたいだけど?」
「え! そ、そうかな。あんまりに幸せすぎてぼーっとしてたのかな。あははは」
 まずい。彼女が俺のことを怪しんでいる。
 そんなに俺は上の空だったのか。いやでもこれは仕方ないことで。本来二人きりのデートのはずが、事実上三人でデートしているようなものだ。
 一人は俺にしか感じられていないから、彼女が俺のおかしな雰囲気に気づくのも時間の問題だった。
 それにいつの間にか、俺と彼女は人影がまばらなラブホ街へと足を運んでいる。
 これはまさか――
「ね………………しよ?」
 彼女が下からすくい上げるような上目遣いで言った。俺の腕にもさりげなくおっぱいを押し付けている。蒸気した頬に、股を摺り寄せてこれでもかというほどセックスアピールをしてくる。
 これを断れる男子なんているわけがない。だが俺は――。
「あ………そうだ! まだ案内してない店があったよ。オススメの店! よし、まずそこへ案内しよう! 俺のおごりだから! ね? いいでしょ?」
「…………」
 彼女の腕が俺からそっと離れる。
「やっぱり……」
「え?」
 俺はその時、力づくでも彼女を引き止めておけばよかったんだ――
「私とは遊びだったのね! もう知らない! さよなら!」
「ちょ――!」
 突然の彼女の豹変ぶりに俺は慌てて彼女の後を追う。
 それに気づいて振り向いた彼女は、そのまま足早に走りだした。
 俺もそれに合わせてスピードを上げる。彼女は何度もこちらを振り向きながら逃げる。

 俺は――どうして――

 けたたましいブレーキ音。
 クラクションの音が聞こえたのはそれからすぐだった。
 目前にいた彼女の姿が消える。
 一瞬何が起こったのか理解できない。
 でも俺には分かっていた。彼女が最後に振り向いたとき、俺に手を伸ばそうとしていたことだけは。
 だからどうして――

 それからどうしたのか自分でもわからない。
 気づいたら病院にいて、彼女の親にこっぴどく叱られ、二度と彼女と会うなと言われた。
 医者の先生と思わしき人が俺に一言、「残念ながら――」と言っていたのを耳にしたが、俺には何のことかさっぱりわからない。

 クリスマス。聖なる夜。キリストの誕生日。

 浮かれている人間が増える日。幸せがまるでバーゲンセールのように飛び交う日。そんなときでも人の営みの中では必ず不幸が起こる。
 誰かの不幸の上に自分の幸せが成り立っているのだとしたら、自分は本当に何も分かっていなかった。
 わかろうとすらしていなかった。
 だから――涙が出てくるまでに丸一日という時間を要してしまったし、それを後悔したところで今更遅いということにまた後悔した。
 それでもクリスマスが終われば、何事もなかったかのように人々は次のイベントに向けて動き始める。
 テレビではたった数秒の小さなニュースが流れて、他の大きなニュースの波に飲み込まれていった。
 よくあることだ。この世で主役だと思ってるのは自分だけではない。誰もが自分だけが幸せだったり不幸だったり感じているかもしれないが、そんなのは地球全体からみれば、あまりにも小さなこと。
 日々の顛末に流されて結局は忘却の彼方へと葬り去られる。

 何が奇跡だ。何が祭りだ。俺はもう二度とクリスマスなんか祝うもんか。

 いつの間にか、俺の体は元に戻っていた。まるであれは幻だったとでも言うかのように。
「ははは。病気。病気だよ俺。だから俺が殺したんだ。彼女を。キリスト? そんなのいるわけないだろ。何調子に乗ってたんだ俺。何がキリストもかわいそうだよ。馬鹿か。そんなに自分は特別な人間だって思いたかったか。あぁそうだよ。俺は今までも、そしてこれからも一生童貞の罪人として生きていくんだ。こんな俺に神が微笑むはずなんかない」
 俺は泥のように眠った。

 それでも朝はやってくる。目を覚ましたのは翌日の昼ごろだった。もうあれから何日経っているのかさえ把握していない。
 生きるのもめんどくさいが、死ぬのもめんどくさかった。
 だからただ、ひたすら家の中で引きこもって、何もしない日々が続いた。
 それでも腹は減るから、何かしら食っていたような気がするが、それももうめんどくさくなってきた。
 食材も底を尽きたし、そろそろ自分も潮時かなと、そう思った時、携帯が鳴った。
「もしもし……」
 つい癖で電話に出てしまう。ここ数日電話すら鳴らなかったので、もしかしたら無意識に誰かの声を求めていたのかもしれない。
「……………」
 しかし、電話をかけてきた相手は一向にしゃべろうとしない。息遣いだけは聞こえるから、イタズラ電話か何かかと電話を切ろうとしたが、その息遣いに言い知れぬ既視感があった。
 知っている。俺は電話の相手を知っている。
 俺はそのまま通話を続けた。何をしゃべったのか覚えていない。でも俺が向かうべき場所だけははっきりと分かった。
 あの教会だ。彼女と待ち合わせする前に訪れたあの教会。あそこに呼ばれている。そんな気がした。

「はぁはぁはぁ……」
 俺は教会の門の前にたどり着くと、その場にへたり込んでしまった。
 どうやらがむしゃらに全力疾走してきたようだ。シャツは汗でベタつき、腕や足がしびれるように痛い。
 こんなに何かに必死になったのはいつ以来だろうか。なぜか自然と笑みが零れた。
「おや? 君はこの前の……また来てくれたのですか。どうぞ。ここでは何ですから中へ」
 あの時の神父さんだ。俺は神父さんの肩を借りるようにして教会の門をくぐった。
 この前と違うのは閑散とした礼拝堂。神父さんと俺以外、誰も人がいない。いや、一人だけ何かを一心不乱に祈るようにキリストの肖像の前に屈んでいた。
 シスター? のような格好をしている。いや実際にシスターなのだろう。
 とにかく俺はいまだにぴくぴくと痙攣する体を落ち着かせるため、長椅子に横になった。
 行儀が悪かったかもしれない。でも神父さんは何も言わず、そっと離れていった。
 おそらく仕事があるのだろう。俺も少し休んだら邪魔しないように帰ろう。

 そばに気配を感じたのはそれからすぐだった。
「うわっ!」
 いつ間に眠ってしまっていたのか。俺が目を開けると、唇と唇が触れ合うかのような距離で女性の顔が迫っていた。
「…………」
 慌てて起き上がると、彼女もそっと顔を引いてしまった。少しもったいないなと感じてしまう。
「え」
 だが次の瞬間、思いもかけない事実に俺は遭遇する。
「…………」
 その彼女は、俺の知ってる――彼女だった。
「おい! 生きてたのか! どうして連絡くれなかった! あ、いやそうか俺のせいであんなことになったから、いやでも生きているなら連絡してほしかった! 俺はお前の親にもう二度と来るなって言われたから確認にいけなかったんだ。でそのすぐあとお前が死んだって知らされて、俺は――」
 彼女の細い両腕を力いっぱい握りしめて、俺はまくし立てていた。
 はっとして、俺はすぐ自分の過ちに気づく、どうして俺は自分のことばかり。
 あの時も――今も、まるで成長していない。
 だから神は俺を見放したというのか。
 俺の頬から自然と流れ落ちる雫を彼女は無言でそっと拭う。
 俺は彼女の胸に飛び込んで一頻り泣いた。
「ありがとう。ごめん。でももういくよ。君が生きてるってわかっただけでも俺はここにきてよかった。シスターやってるんだね。最初君だって気づかなかったよ。あんなに派手な格好だったのに、今はこんなに質素になって……でも似合ってるね」
 それだけ言うと、俺はそっと席を立つ。
 彼女が何か言いたそうな視線で俺を見つめ返す。俺はただただ彼女に懺悔するしかない。
 俺は罪を背負った。彼女が生きていたから良かったでは済まされない。俺は過ちを犯したのだ。
 あの時彼女に嫌われてでもすべてを話すべきだった。心の中で思ってることは口にしなければ伝わらない。それは人間であるかぎり仕方のないことだ。
 どんなに言葉を重ねても誤解やすれ違いは起こるかもしれない。
 だからって口をつぐんでいたら、結局本当に伝えたかったことは何もわからないのだ。
 それはきっとあの人が教えてくれた。
 あの人の声が俺の中で残響する。

『神よ、来るべき日がやってきた』
『君とならこの試練も乗り越えられそうだ。一緒に頑張ろう!
『まずいぞ、悪魔の気配がする』
『試練とは本来そういうもの。何が起こっても不思議ではないのだ』
『ありがとう。君に出会えてよかった』

 たった二日間だったけど、あれは本当に幻だったのだろうか。
 俺の中にいたキリストは本物だったのか偽物だったのか。今になってそんなことを思うなんて俺もどうかしているのかもしれない。

「…………私だ」
 ぎょっとして振り返る。聞き覚えがある声。
 だが、振り向いた先には彼女しかいない。何やら恥ずかしそうに俯いている。
 空耳か、俺は再び踵をかえし、門に向かって一歩踏み出した。
「すまないと思っている。君にも彼女にも」
「え」
 また声。今度はさっきよりはっきりと聞こえた。
 俺は辺りをきょろきょろと見回す。まさか俺の中にまたあいつが――
「どこをみている。ここだ。ここ」
「…………え」
 嘘だろおい。そんな――
「命をつなぎ止めるのに時間がかかった。本当ならもっとはやく君に連絡するべきだったのだが、致し方あるまい。あの時の私の力ではこの程度の奇跡しか起こせなかったのだ。許して欲しい」
 彼女がまっすぐに俺を見つめて言った。
「ど、どういうことだ。おいまさか――」
 もう答えは出ていた。
「あぁ。君の想像どおりだ。私は彼女の中に入った。そして今こうして君の前に再び降臨した。これがあの時、私にできた精一杯のきっ――」
「こ、この野郎! 心配したんだぞー!」
 俺は力いっぱい彼女を抱きしめた。教会のど真ん中で。

 それからはまた苦難の日々が始まった。

 ここに少しだけ、事の顛末を記しておこう。
 彼女の中にいたのは紛れも無くキリストで、キリストいわく――
 「彼女の精神はまだ深く眠っている。このままではいずれ昇天してしまいかねない」と。
 キリストが中に入る事で命をつなぎとめたということらしい。
 だから厳密にはまだ彼女の意識は眠ったままということになる。
 俺が出会ったのは彼女の体に入り込んだキリストだったわけだ。なのに俺はあんなこっ恥ずかしいことを。
 で、彼女を元に戻すには、さらに今以上の奇跡の力いるとかなんとかいって、そのエネルギーがもっとも回復するのが十二月二十五日。
 そうクリスマスだ。一年。ほぼ丸一年かかるということに軽く絶望した俺だが、それも試練だと思うことで、俺は再びキリストと一緒にこの試練に立ち向かうことを決心した。
 最初の試練はあまりにもハードだった。
 中身がキリストとはいえ、彼女は彼女。俺の彼女であるから、普段は俺の彼女として振る舞うわけだけど、それがあまりにも様になっているというか。
 下手したら前の彼女よりもおしとやかで繊細でこちらのことを気遣ってくれるので、勘違いして襲ってしまうことがたびたびあった。
 その度に、彼女の下半身に生えたアレが俺を現実に呼び戻す。
 そう彼女にはちんこが生えていた。キリストいわく――
 「父の計らいで、性交は不可能にっ――」と。これまたどこかで聞いたような台詞を言われて、がくっとうなだれる。
 このまま一年、俺はずっと童貞のままということだ。
 あまりにも惨め姿を晒した俺に、キリストが何を血迷ったのか――「どうやらこの国の文化で男同士でも性交できるというしきたりがあるらしい。それをしてみるか?」などと言い出す始末。
 そんな偏った知識をどこで仕入れてくるのか、不安に思いながらも、俺は自分の処女と童貞を守り続けることを神に固く誓った。

 世の中に不思議なことなんて一切起こらない。

 ありがたいキリストの言葉は俺にだけ届く。別にクリスチャンになったわけでも本当に神様がいるなんてことも思ってはいない。
 が、もしかしたらそんな奇跡は身近にいくらでも転がってるのかもしれないなと思うぐらいには、俺もキリストという存在に惹かれているのだろう。
 まずは彼女の復活。言い方はあれだけど、これは俺が背負った罪でもあるので、とりあえずできることはやろう。

 そう主に誓った。

 主はすぐそこまで来ていた。

 おわり。
 
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テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

魂の雄叫び ~悪魔が俺をこう変えた~
 朝起きたら、女の子になっていた。というのは少々語弊があるかもしれない。
 正確には下半身のごく一部が女の子になっていた。そう、アレがないのである。
「な……なんでやねん!」
 誰にともなくつっこんでみたが、虚しいだけだった。
 俺の名は須巻聡一。市立仙譚高校に通うごくごく普通の高校生だ。
 今年の春、高校に入学してやっと新しい生活に慣れてきた頃だというのに、どうしてこうなった。
 改めてまじまじと自分のあそこを観察してみるが、明らかにあるべきものがそこにない。
「俺のちんこどこいったんやー!」
 思わず頭を抱えて叫んでしまうのも致し方ないことだろう。
「お兄ちゃん! 朝からうるさい!」
 突然ノックもなしにドアを開けるわが妹。少々礼儀がなっていないが、今はそんなことにいちいちつっこんでいられるほど俺も暇ではなかった。なので華麗にスルーする。
「さて、まずは俺のちんこがどうしてなくなったのかを考えないとあかんな」
「朝からちんこちんこ……お兄ちゃんってばもっと女の子のことも考えてー!」
 などとのたまい俺の部屋を出て行くせわしないわが妹であった。
 そもそも女の子なのに「ちんこ」とか言ってる時点でお前に女の子の何が分かっとるねんと心の中でつっこむ俺だった。
「ふむ。駄目だ。サッパリわからん。とにかく飯だ。ちんこの件は食べてから考えよう」
 一物がないせいなのか、寝起きだからか分からないが、体のバランスが妙におかしくて何度か廊下でこけそうになりながらも無事食卓へついた。
「ねぇちゃん。おかわり」
「朝からよく食べるわね。あんた。それよりさっき千恵を泣かせてたみたいだけど?」
「知らんわ。アイツが勝手に俺の部屋に来て勝手に出て行っただけやん。俺なんもしてないし」
 わが姉の手料理はうまい。そりゃもう朝からご飯を三杯はおかわりするぐらいにはうまい。
「そう、ならいいんだけど……あんた今日は朝勃ちしていないのね」
「え?」
 思わず自分の股間を確認して「しまった」と思った時にはすでに遅かった。
「ふーん。なんか面白いことになってそうね。みせなさい」
「はい」
 有無を言わせないわが姉の笑顔。デススマイルだ。この笑顔から逃れられたことは一度もない。つまり俺は姉には逆らえないのだった。
「なにこれ。面白いわね。どうしたのあんたのちんこ? どっかいっちゃったの?」
「さぁ……俺にもさっぱり……朝起きたら突然こうなってて……」
「それでちんこちんこ叫んでたのね。千恵にあとで謝っときなさいよ。あの子極度の恥ずかしがり屋だから」
「はい……」
 自分で「ちんこ」言うのは恥ずかしくないくせに人が言うと恥ずかしがるわが妹の神経が分からないが、姉に命令されたからには謝っておくしかないだろう。俺の家は基本的に年功序列なのだ。
 そのあと居間の隅っこでうずくまる妹に謝り、そのままいつも通り学校へ行く支度をして玄関を飛び出した。股間に違和感を抱えつつも学校を休むわけにはいかない。とりあえずは普通にしてればどこも変わった様子はないので学校に着いたら大人しくしていよう。
 そしてゆっくりこうなってしまった原因を考えればいいのだ。ちんこがなくなったからって今すぐ死ぬわけでもないしな。
「おはよう」
「おはよう」
 教室に入るとクラスメイト達に挨拶をされる。最初の頃はぎこちなかったけど今はもう皆すっかり馴染んでいる様子だ。だから余計に今の俺の状態が皆にバレるわけにはいかない。今はちょっとしたことでも人間関係に亀裂が入ってしまう微妙な時期なのだから。
「おはよう。そういっちゃん!」
「おぉ。おはよう」
 俺が自分の席に着こうとしたところで、突然背後から声を掛けてきたのは一見すると男に見えるほどベリーショートな頭をした女の子。楠木麻衣子だ。
「そういっちゃん。今日はどこか元気ないけど何かあったの?」
「え? いや何もないよ。ちょっと朝食べ過ぎちゃってお腹がイタイぐらいかな。ハハハ」
「ふーん」
 馬鹿そうな面をしている割には感が鋭い子である。他のクラスメイトと違ってやけにフレンドリーなので対応に困るのは事実だ。でもまぁコイツにはバレないだろう。なんやかんやで好奇心が旺盛だから俺だけに構ってる奴ではない。
「あ、みっちゃんおはよう!」
「……………………はよう」
 さっそく、楠木は別の奴に挨拶していた。よく見るとそこにはこのクラスでも一際目立つことの無い……いや目立たなすぎて逆に目立ってしまってる地味な生徒、眼鏡をかけたいかにも根暗そうな外見の女の子(でもおっぱいは大きい)桜木美智子がいた。
「今日はみっちゃん、なんだか色っぽいね。何かあったの?」
「…………………ない」
「ふーん」
「あ、おはよう! おはよう!」
 俺の時とほとんど一緒の対応。アイツはほんとにテンプレみたいな行動しかできない奴だな。まぁそのおかげ俺の秘密もバレないで済むが。楠木が教室中を駆け巡って挨拶をしているのを眺めながら、桜木が俺の前の席に座るのを確認した。
 楠木が言うようにたしかに今日は桜木からどこかしらの色気を感じる。普段が普段だけにちょっと頬が上気してるだけでこんなにも女は変わるのか。恐ろしいな女子高生ってのは。おっと俺の股間が……そうか……アレがないから当然勃起もしないのか……。
「はぁ……」
 俺は深い溜息をついた。
「………………」
 前を向くと一瞬だけ桜木がチラっとこちらを見ていた気がするが、おそらく気のせいだろう。仮に見ていたとしても俺に話しかけてくることはない。コイツも安全牌だ。
 朝のHRも終了し、いつもどおりの授業風景が展開される。普段の俺ならこのまま眠りに落ちるところだが、今日はそうは問屋が卸さなかった。授業そっちのけで今現在の自分の股間に対する異常事態を冷静に分析していた。
 どうして俺のちんこがなくなってしまったのか? ちんこはないけれど、よくみたらコレは女性器のソレではないか? だとしたら俺は女になってしまったのか? いやおかしい。女になっているのなら、外見もおっぱいもその他諸々女らしくなっていなくてはいけない。なのに俺の体はちんこ以外はまるで男のままだった。
「そんな、馬鹿な……」
 絶望すると同時にチャイムが鳴った。いつの間にか昼休みに突入していたようだ。まるで授業を受けた記憶がない。いやそれはいつものことか。
 とにかく早急に元に戻る方法を探さなくてはいけない。元に戻る? いや違うな。元に戻すだ。そう、ちんこがなくなったのだからちんこを探し出せばいい。そうだ、そうしよう。
 俺はそのまま席から立ち上がると、このクラスで最も頭のいい生徒、山口伝五郎の席に向かった。山口に聞けば大抵のことは何でも分かるのだ。
「山口……ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「よかろう。つづけたまえ」
「…………」
 こういうやつだ。語り口調も去ることながら、その外見も恐ろしいほどに古風だった。学生服に学生帽、そしてマント。入学初日からこの格好だったのでもはやこの学校で山口のことを知らない奴はいないと言っても過言ではないだろう。
 そんな変人とクラスメイトになってしまったのは当時は最悪だと思ったが今思うとそれが最良だったのかもしれない。なぜならコイツはこんなナリをしていても成績は常にトップクラスで教師たちにも評判が良く、人が困っていればそれがたとえどんな奴だろうと手助けするほどお人好しなのだ。だから憎めない。先生たちもそれがわかっているのでこの山口の特殊な格好を許可している。ただの変人ではないということだ。
「実はその……俺さ……あーいやー、俺というか……まぁなんだ俺の友達の話なんだけどね?」
「ふむ」
 昼飯を食べていたのかそれを中断して俺の顔を真剣に見つめてくるその視線に若干の罪悪感を感じつつも俺は続けた。
「股間の一物が突然消えちゃって、それを元に戻す方法ってあるのかな?」
「…………」
 しまった。ちと唐突すぎたか。いやでもこう説明する以外にどう説明すればいいのかもわからない。待つこと数秒。山口は真剣な顔でこう返してきた。
「それはつまり、女になったということか?」
「あ、いや。たしかに女になったと言えばなったんだが……そうじゃなくてもっとこう局所的な話で……股間のアレがさ……こうひゅっと突然いなくなることってあるのかな?」
「…………」
 何を言ってるんだ俺は。これじゃますます彼を混乱させるだけではないか。ええいままよ。こうなったら単刀直入に聞くしかあるまいて! 教室には昼食を食べてるクラスメイトたちが他にも大勢いるが背に腹は変えられん。いざ!
「待ちたまえ。君が今言おうとしていることはここではまずかろう。しばし場所を変えよう。そうだな。差し当たっては今現在誰も使用していないであろう。視聴覚室を使わせてもらおうか」
「へ?」
 そう言うやいなや、山口は食べかけの弁当を片付け、さっさと教室を出て行ってしまった。あっけにとられた俺は山口の姿が見えなくなってから慌てて後を追いかけた。彼に追いついた頃にはすでに職員室で視聴覚室の鍵を借りているところだった。相変わらず教師の信用度がハンパない。俺ならきっと嫌な顔をされて永遠に視聴覚室を使う理由を問われているだろう。
「さぁ、ここなら誰もいない。君が本当に言いたことを言ってくれたまえ」
「あぁ……」
 この行動力。そして何よりまだそんなに話したこともなくて仲良くもなんともない俺のためにここまで状況を整えてくれる優しさ。こりゃ教師が惚れ込むのも分かる気がするな。山口がここまでしてくれたんだから俺もその期待に答えないとな。俺はおもむろに制服のズボンのベルトを緩めるとそのまま一気にパンツと一緒にずりおろした。
「つまり、こういうことなんだが……これを元に戻す方法って分かるか?」
「なるほど。見事なつるまん具合だ。少し触ってみてもいいかな?」
「え? あ、あぁ……いいけど……」
 特に驚いた様子もなく山口は俺の股間に手を伸ばしてきた。咄嗟のことだったのでつい頷いてしまったが、そういや俺はまだ自分で触って確認していなかったことを思い出していた。つまり俺のちんこがなくなって初めて触れるのが山口ということに……
「あ、ちょっとまっ――――!」
 その時俺に電流走る。今までに感じたことの無い快感が俺の体中を駆け巡った。なんだこれは。目がチカチカする。足が震えて立っていられない。そして何よりも声が――
「んぁ!」
「おっと……すまない。敏感なところを触ってしまったようだ。でもこれで、はっきりした。どうやら君のコレは本物のようだな」
「そ、そうか……」
 男同士だというのになぜか俺の鼓動は高鳴った。きっとさっき山口が俺の突起物に触れたせいだと思う。まさかいきなりそんな所を触るとは思ってもいなかったのでびっくりした。でも確かにこれではっきりした。やはり俺の下半身は女の子になってしまったのだ。
 そのあともじっくり山口に観察及び触診をされて、潮までふいてしまった俺だが、詳細は省くことにする。なんせ完全な女体化ならまだしもこんな中途半端な女体化のサービスシーンなど需要はないからな。うん。
「で、何か分かったか?」
「あぁ。何も分からないということが分かった」
「…………そうか」
 やはりダメだったか。山口でも分からないとするともはや誰に相談しても無駄だろう。俺が半ば諦めかけていると山口が言った。
「だが、可能性の話ならできるぞ」
「え?」
 俺が顔を上げると山口が黒板にチョークで何かを書き出した。どうやら俺に分かりやすいように板書してくれるようだ。なんという紳士。
「君のペニスが消失した原因は分からないが、考えられる可能性としてはざっと百万通りある」
「ひゃ……ひゃくまん!?」
「いや冗談だ。真に受けないでくれたまえ」
 お前が言うと冗談に聞こえないんだよ。まぁでもきっとこれもコイツなりの優しさなんだろう。深刻な話をする前にギャグを入れて相手の緊張を緩和させる。山口はほんとにイイヤツだった。
「現実的な可能性としては、ウィルス説。後天性性転換症などがあるが、どちらもたった一日でここまで見事に体質を変化させるとは到底思えない。よって非現実的な可能性も考えなくてはならない」
「非現実的な可能性?」
 それはつまりアレか。スーパーでサイヤ的な人が七つの玉を集めて何度も人間を蘇らせて命の軽さを全面に押し出すようなアレだな。たしかにそれはあまりにも非現実的すぎてもはやギャグだ。
「つまり俺はこれから七つの玉を集める旅に出ればいいのか?」
「何を言ってるんだ君は」
 あれ? 乗ってこない? いやまぁたしかに唐突すぎたけど……。
「そんな玉はこの世に存在しない。私が言いたいのは黒魔術あるいわ心霊現象といった非科学的な現象が関わっているのではないかという話だ」
 なんだよ。俺の言ってること分かってるんじゃねぇかよってつっこみはあえてしないでおく。そんなことよりもまさか山口の口からそんな非科学的な単語が出るとは思ってもいなかったのでそちらのほうが驚きだった。
「お前……結構頭が柔らかいんだな」
「成績が優秀で頭のいいキャラであることは私も自覚している。だからといってなぜ頭が固くなくてはいけない? そもそもこうして私は君のペニスが消失している事実をきちんと確認したのだ。自分で見たものを否定することのほうがよっぽど馬鹿馬鹿しいとは思わないか?」
「あぁ。いや確かに……山口の言うとおりだ。勝手にキャラ付けして悪かった」
 コイツもコイツでいろいろ悩んでるんだな。それが分かっただけでも有意義だった。これからはコイツともっと仲良くなれそうだ。
「でもだとしたら俺はどうすればいいんだ? そんな黒魔術だが幽霊だか目に見えないものの影響によってこんな体にされたとあっちゃあ、もうどうしようもない気がするんだが……」
「そうだな。私にもどうしようもない。だから何も分からないことが分かったと言ったんだ。君の問題を解決できるのはきっと私ではないのだろう。だがこうして相談されたからには私にも責任がある。だから私よりもそっち系の話に詳しい友人を紹介しよう」
「友人?」
「あぁ。非科学的なことに関して、彼の右に出る者はいない。私も一目置く友人だ」
「へぇー……」
 そう山口に言われるままに案内されたのは何を隠そう自分たちの教室だった。俺もまさかとは思ったが、そのまさかだった。俺の目の前にいるのはこのクラスでも一際目立つ変人。いや変人を通り越してもはや変態だ。見た目があまりにも標準すぎるために、その中身がより一層際立っている。言動のすべてがおかしい男――
「ユー、俺とキスしちゃいなよ」
「えーやだーキモイー。あはは」
「わざわざイケメンボイスと女声を使い分けて一人芝居してんじゃねぇ!」
 鳴沢英彦だった。アニメの声優を目指しているとかで、どうやらそっち系の話に詳しいらしい。山口もとんでもない奴と仲良くしてるんだな。いやどっちもある意味ぶっとんでるので相性が良いといえば良いのか。でもまさかコイツを紹介されるとは思わなかったので少々ガッカリした。いや……少々ではないな……すごくガッカリした。
「で、僕に相談したいことって何ですかな? 山口氏がいつにも増して真面目な顔で僕のところに来たかと思えば君……えっと須巻氏だっけ? まぁ僕は山口氏ぐらいしか友達がいないので他のクラスメイトの名前も顔も覚えてないわけですが。で話は戻るけど、須巻氏は一体……」
 今は当然放課後である。俺と目の前のペラペラと無駄口を叩く鳴沢以外、教室には誰もいない。山口は放課後もまた別の誰かに相談されて、ソイツの相談を受けるために先に帰ってしまった。できれば鳴沢と二人っきりって状況は避けたかったんだが、仕方あるまい。間違っても山口の推薦なんだ。鳴沢なら俺の今の状況を打開できるだけの何かを持ってると判断したのだろう。癪だが今はそれにすがるしか無いのもまた事実だった。
「あぁ。お前なら俺のちんこをなんとかしてくれると思って、相談しに来たんだ」
「僕にBLの趣味はありませんよ?」
「BL? なんだそれは……」
「これだからパンピーは……」
 何に気分を害したのか知らないが、非常に扱いにくい奴なのは確かだった。
「まぁ見てもらったほうが早いだろう。コイツをみてくれ? どう思う?」
「っ!?」
 俺は山口の前でやったのと同じことをそっくりそのまま鳴沢の目の前でやった。
「ふ・じ・こ・ちゅわぁああああああああああああああん!」
「ってうわぁああああああああああああああああああああ!」
 突然鳴沢が飛び上がったと思うと奇声を上げて、飛びながら器用に服をすべて脱いで俺に飛びかかってきた。ていうかなんだこの現実離れした技は。ルパンダイブをリアルでする奴なんて初めてみたぞ。ていうかそもそもなんで俺に向かってルパンダイブなんか。
「ぐへぇ!」
 俺はそのまま全裸で飛び込んでくる鳴沢の顔面を思い切りぶん殴った。
「どうだ。目は覚めたか?」
「ふふふ。ナイスパンチですよ。須巻氏。あやうく僕も人生を踏み外すところでした」
 鼻にテッィシュを詰め込む鳴沢を冷めた目で見つめながら、俺は事の次第を話した。鳴沢は目をキラキラと輝かせながら俺の話に聞き入っていた。
「なるほど。なるほど。これは確かに山口氏では解決できない問題ですね。彼は確かに変なキャラですが、至ってまともな人ですから。現実を超える問題にには対処できないんですよ。その点、僕はなんでもありですよ。貴方がそうなった原因を百万パターンはすでに思いつきました」
 また百万か。俺はつっこむのもめんどくさいのでそのまま鳴沢の言いたいように言わせることにした。
「つまり。端的に言うと、貴方の股間はおそらく他の誰かの股間と入れ替わってしまっている状態と言えます」
「おい、ちょっとまて。なんでそうだと断定できる。百万通りの原因があったんじゃなかったのかよ!」
「はい。でもそれを一つ一つ説明し、また検証するのもめんどくさい話でしょう? それに今回の物語は長編にするつもりはまったくないらしいのでここらで種明かしをするのが賢明だと思いますが? それとも貴方みたいなごくごく平凡のキャラが突然女の子になってイチャイチャされるお話のほうが良かったですか? 僕はごめんですね。少なくとも僕はTSジャンルというのはそんなに好みではありませんので」
「………………」
 おーし。よしよし。よく手が出なかった。褒めてやるぞ俺の拳。なるほど、鳴沢の言ってることは八割方意味が分からないが、とにかく俺の今の状態は見知らぬ誰かの仕業で確定ということらしい。ならばもう話は簡単だ。そいつを見つけ出して俺の息子を今すぐ元に戻してやる。
「世話になったな。今後もう二度とお前とは会話しないと思うが、今回の件に関しては礼を言っておく。いいか? このことは誰にも話すんじゃないぞ」
「はいはい。最初にも言いましたが僕には友達が山口氏しかないですし、それに僕の口から出た言葉はどうせ皆ただの妄言と思うでしょう。だから須巻氏が心配する必要はまったくないということですよ」
「………………」
 ふむ。ちと言い過ぎたかもしれない。コイツもコイツでやはり悩みはあるんだな。こっちの勝手なイメージだけで人のキャラを決めつける癖は治した方がいいかもしれない。
「すまない。言い過ぎた。また何かあったら相談するよ。サンキューな」
「いえいえ。それよりも僕は貴方の股間に興味がっ――」
 手つきがすごくいやらしかったのでまた思いっきり殴ってしまった。鳴沢はいやらしい顔をしたまま昏倒した。

 家に帰り着く頃には俺の頭も十分整理されて、今後の対策を前向きに考えられるようにはなっていた。
 しかし、なぜか今俺は妹のぱんつを履かされている。
「おい。千恵。これは一体何のマネや」
「お兄ちゃん。おちんちんどっかいっちゃったんだって? だから千恵ね。お兄ちゃんのためにカワイイぱんつ用意したよ!」
 おーけー。落ち着こう。妹にこんなワケの分からないことを吹き込めるのはおそらくあの姉しかいない。姉に何を言われたのかしらんが、どうして俺が妹のぱんつを履かなくてはいけないのか。だがしかし、ここで再び妹に対して俺が理不尽な態度をとると、おそらくあの姉のことだからもっとエスカレートした話を妹に吹き込むかもしれない。だから俺ができることといえば、ただ一つ。妹のしたいようにさせることだけだった。
「つるつるだねぇ。お兄ちゃんもお股の処理してるの? お姉ちゃんはボーボーだからお兄ちゃんのこと羨ましいって言ってたよ」
「ふーん。そうなんだ。ははは。ってなんでやねん!」
 あの姉貴。それが発端か。朝俺の股間を見せたときにやたらと難しそうな顔をしていたが、まさか自分の毛の濃さを理由に俺でストレス発散するとは……わが姉ながらえげつない人やで……ほんま。
「もういいだろ。気がすんだやろ。俺はこれから風呂にはいるんや。ぱんつはもう終了や。さっさと片付けてこいや」
「えー。せっかくお兄ちゃんに似合いそうなぱんつ探してたのにー。いけずー」
「はいはい。じゃあ風呂出たらお前の一番気にいってるぱんつ履いたるわ。それで勘弁してくれ、な?」
「うん!」
 ほんま現金な奴やなぁ。それにしても早いところ元に戻らないとこれは半永久的に妹や姉に遊ばれてしまう。俺は湯船の中で一体誰の股間と俺の股間が入れ替わったのかを考え始めていた。犯人はおそらく女だ。鳴沢が言うには、この手の展開の場合、身近な奴が犯人だから、今まで出てきた登場人物の中に必ずいるからソイツの股間を確認してみろってことらしい。
 ふむ。だいたい分かった。俺が今日出会った人物で、女といったら、妹、姉、楠木、桜木の四人だ。つまりこの中に犯人はいると。そう、あとはこいつらの股間を俺が確認して……
「ってそれからどないせいっちゅうねん! そもそもそんなことしたら俺変態確定やんけ!」
 はっきり言って、絶望が俺のゴールだった。その日の夜も結局悶々として寝付けなかった。気づいたら朝チュンで、俺の股間ももちろん元には戻っていなかった。
「はぁ……」
「じゃーん! 千恵の新しいぱんつだよ!」
「はぁ……」
「じゃーん! 千恵の新しいぱんつだよ!」
「大事なことなので二回言っちゃったのね。千恵かわいいわ千恵。食べちゃいたい!」
「もう、お姉ちゃん。千恵はお兄ちゃんに言ったのー」
 朝から妹と姉が下着姿でじゃれ合っている。いろいろつっこみたいが、今はそんな気分になれない。それにこれで二人は犯人ではないとはっきりと確認できた。
 女性用の下着は男では履きづらいのだ。そう二つの玉が邪魔をする。男のぱんつと違って女のぱんつは恐ろしいほどに股間との接触面積が狭いからな。俺も小さい頃姉のぱんつを何度も履いて確認済みだ。玉がその接触面積を押し広げるようとするので履いていて気分のいいものではない。つまり目の前のテンションの高い二人にはちんこがない。イコール玉もないので、当然犯人から除外される。家族が犯人じゃなくて良かったのか悪かったのか、少なくとも今の俺にとっては何の慰めにもならなかった。
 けど、テンションはガタ落ちしてもきっちり飯を三杯おかわりするぐらいにはやはり姉の料理はうまかった。
 学校にたどり着く頃にはすっかり元気を取り戻し、残る二人の容疑者の股間をどうやって探ればいいのかを必死で考えていた。
「おっはよー! そういっちゃん!」
「あぁ。おはよう」
 今日も元気だ。いい匂い。うん、女の子はこれぐらい活発でないといかんな。少なくともスカートをもっと翻すくらいには派手に動きまわって欲しいと俺は思っている。
「あれれ? そういっちゃん。今日はなんだかすごくえっちぃ顔してるよ?」
「おっと。ふふ、何を言ってるんだ楠木。男は常にえっちぃもんだぜ」
「あ、みっちゃんおはよう!」
「って人に話ふったんなら最後まできかんかい!」
 ミスノーブレーキの名前は伊達じゃない。とにかく一つの場所に一定以上止まることができない楠木が股間に一物を抱えているとは考えづらい。男ならまだしも女がいきなりあのような重りを身につけると動き方は自然と不自然になるはずだ。自然と不自然ってのもおかしな言い方だが。とにかく楠木のあの動きから察するに奴は犯人ではないだろう。
 となると残りは……
「……お……はよう……」
「おう……おはよう」
 桜木が俺に挨拶しただと。馬鹿な。だがこれでますます怪しい容疑者は一人に絞れた。昨日からの桜木の態度といい、今回俺に挨拶したことを鑑みても一番怪しいのコイツだ。やはり、あれは伏線だったのか。俺としたことがあんな単純な伏線に気づかないとは。まぁいいだろう。頃合いを見計らって桜木に真意を問いただそう。
「そう、お前はどうして俺の股間をほしがったのか」
「……え?」
「え?」
 しまった。つい口に出してしまった! おい待て。そこでなぜ顔を赤らめる。まさかほんとにお前が――。
「す……」
「す?」
「オーッス! 聡一! しょんべん行こうぜ!」
「ぐげぇ! ってもうHR始まるだろが! ゆとみ!」
 大事なところで邪魔が入るのは仕様みたいなもんか。俺はそんな何かのゲームみたいな仕様の運命に流されながらも、このクラス唯一のまともな友人、倉前ゆとみに無理矢理引きずられてトイレに来てしまった。
「俺、一度連れションってのしてみたかったんだ」
「はぁ? 何ワケのわからんことを……」
 ってまずい。勢いでチャックを降ろしたが今の俺には象さんの鼻がないので、このタイプの便器にはうまく発射できねぇ。
「おっと。そういや今日はまだおっきい方をしてなかったな。というわけで俺はこっちでするわ。お前は先に戻ってていいぞ。ゆとみ」
「お? そうか。なるべく早く戻れよ。もうすぐ一時間目はじまっちゃうぞ」
「お、おぅ……」
 ってお前が無理矢理引っ張ってきたんだろうがとつっこみたいのは山々だが、なぜかトイレに来るとしたくなくてもおしっこしなくちゃいけないみたいな脅迫観念に駆られるので、俺はそそくさと便器にまたがった。
 しかし、改めて見るとほんとつるつるだな。俺にまだちんこがあった頃はきちんと毛もあったはずだが……。
「そうか、分かったぞ。これはつまり入れ替わった相手のあそこがつるまんだという決定的な証拠……やっべちんこたって……くるわけないよな……はぁ」
 チョロチョロと虚しく流れゆく自分のおしっこを呆然と眺めながら、たかがおしっこでトイレットペーパーを消費することに激しく苛立ちを覚え、教室に戻ってくる頃には当然一時間目の授業が開始されていた。

 そんなこんなで結局放課後になるまで何の解決策も思い浮かばず、今日もまた無駄に一日を過ごしてしまったことを後悔した時にはすでに教室には誰もいなかった。
 結局、桜木が俺に言いかけていたことは何だったのか分からずじまいだった。ゆとみに邪魔されて肝心なことを聞き忘れてしまった。結局アイツは俺になんて言おうとしていたんだろうな。
「あ、あの……須巻くん……」
「おわっ!」
 校門を出るといきなり背後から幽霊みたいな声で名前を呼ばれて飛び退いた。よくみるとそこにいたのは桜木その人だった。なんとも絶妙なタイミングで現れるので、俺はもしかしたらこのあととんでもない真実を知ることになるのではないかと胸が高鳴った。
「実は須巻くんに大事なお話があるの」
 ほらきたー! やはり犯人はコイツだったのか。よぉーし。なぜこんなことをしでかしたのか洗いざらい吐いてもらうぞ。そして早急に俺のトンガリコーンを返してもらうんだ。
「ここじゃ恥ずかしいから……近くの公園まで……いいかな?」
 もじもじと体をくねくねさせながら言うもんだから、なんだか変な勘違いを起こしそうだ。俺は無言で桜木の問いに頷くとそのまま桜木に先導されて人気のない公園にやってきた。このシチュエーション。俺がまともな体だったらおそらく告白シーンみたいなのを期待するんだが、いかんせん今の俺はまともな体ではないので、これは特殊なケースと考えるべきだ。ここで判断を間違えて桜木を怒らせてしまったら、今度はどうなるかわかったもんじゃない。下手をすれば俺の体がまるごと女になりかねん。それはそれで楽しそう……いやいや何考えてるんだ俺。
「あ、あのね。私ね!」
「きゃー! たすけてー!」
「な……なに……!?」
 くそ、またしても良いところで邪魔が! 一体なんだってんだ!
 俺は誰かのSOSの声が聞こえた方向と桜木の顔を交互に見つめるとそのまま勢いでこう言った。
「ちょっとここで待ってろ桜木。すぐ戻るから! 五分経って戻らなかったらとりあえず警察か何かに連絡しろ! お前はついてくんじゃねぇぞ! あぶねぇからな!」
「まっ――」
 桜木の制止も聞かずに俺はそのまま声が聞こえた方向に向かって走り出した。自分でもなんでこんなことをしているのかよく分からない。自分の問題が解決していないのに見知らぬ誰かのために走るなんて、それこそ何かの物語の主人公みたいでかっこいいじゃないかと思った。
 まぁ俺の問題なんてちょっとぐらい先延ばしにしても後からどうとでもなる話だ。それよりさっき聞こえた声は切羽詰ってるようだった。誰かは知らないが、まずい状況にいるのは確かだろう。
 俺が声の主と思われる人物の前にたどり着いた時、たしかにそれはまずい状況というに相応しい状況だった。うちの制服を来た生徒が他校の生徒数人に囲まれているというような状況だ。
「おう。なんか可愛い声で鳴くじゃねぇか。もしかしててめぇ女か?」
「それはないっすよ。コイツどう見ても男じゃないっすか。胸もないし」
「ふん。まぁどうでもいいんじゃね。さっさと金もらってゲーセン行こうぜ」
「だな。というわけで、早く財布だせよお前」
「嫌!」
「なんだとてめぇ!」
 おー。なんとまぁ典型的なカツアゲシーン。俺はとりあえずどうしたものかと思案した。顔はよく見えないが、うちの学校の生徒に間違いはない。どうやら相手は粗暴で有名な桃城高校の奴らだ。相手は三人。俺一人が無闇に割って入ってもきっとフルボッコにされて終了だ。最悪俺もカツアゲされかねん。俺はケンカは丸っきしダメなんだ!
 かといってここで見てみぬふりするのも俺の紳士道に反する。ならばどうするか。答えは簡単だ。ハッタリしかない!
「おうおう。お前らその辺でやめとけや」
「あぁん?」
 ここらじゃ俺の地元の方言は割と威圧感を与えるはずだ。普段学校とかではあまり使ったことはないが、家でならしょっちゅうこんな言葉遣いだ。だからまぁこれでちょっとした時間稼ぎぐらいにはなるだろう。五分もすれば桜木がきっと助けを呼んでくれる。最悪俺がフルボッコにされてる間に誰かが来れば万々歳というわけだ。
「なんだお前? コイツの友達か? だったらお前も金だしてとっと消えな」
「はぁ……これやからこっちの人間はなってない言われるねん」
「何言ってるんだコイツ?」
「ええか? 自分ら三人おるやろ? 三人おって一人の学生から金取り上げても一人分ぐらいにしかならんやんけ。そしたら他の二人どうすんねん。仲間内で取り合いか? みっともないわ。そんなんする暇あったらさっさと家帰ってクソして寝とけ。お前らみたいなもんがうろついてると、こっちも目障りなんや」
 よし決まった。俺は満面の得意顔で言いたいことを言ってやった。案の定あいつらはぽかんと口を開けて間抜けな顔をしている。俺は今のうちやと、カツアゲされそうになってた生徒に目配せして激しくツッコミを入れた。
「って、ゆとみ。お前なんでこんなところにおるんや!」
「そ、そういちー!」
 ゆとみが涙目になりながら、俺の方に向かって走ってきた。ば、馬鹿。こっちへ来てもまたあいつらと向かい合うはめになるやんけ。俺は必死でこっちへ来るなとゆとみに目線でアピールするが、それを安心しろのサインに受け取ったのか、激しく頷いて俺の胸に飛び込んできた。
「ぐげぇ! その脚力でさっさと逃げろと……」
「そ、そういちー! ぐすん」
 泣き顔のゆとみはなぜか女の子っぽくてすごく可愛かった。それに何より男であるにも関わらずとてもいい匂いがした。
「って、俺は何男に欲情してんだ。ちくしょお!」
「おい、こっちを無視してるんじゃねぇよ!」
 ゆとみの背後から桃城高校の奴らの一人が殴りかかってきた。俺は慌ててゆとみをどけると、そのままソイツの拳を受け止めた。まぐれだった。
「もうええやろ。これで分かったやろ。自分らじゃ俺にはかなわへん。さっさとどっか行ってその持て余したエネルギーを発散してこいや。悪いことは言わへん。ケガせんうちにとっと――ぐっ」
「へへへ。股間ががら空きだぜ。さすがに急所を蹴られたら、男は立ってられないよな?」
「…………なんちゃって」
「え?」
「おうりゃああああああああ!」
 俺はそのまま勢いで相手の足を絡めとり、柔道の大外刈りみたいな格好で相手を地面に叩きつけた。もちろんまぐれだった。
「残念やったな。こんなこともあろうかと、普段から急所は鍛えてあるんや。自分らのケリぐらいじゃ痛くもかゆくもないわ」
 当然そんなわけなかった。痛いことには痛かったが、幸い今の俺には玉がないので、股間は急所にならずに済んだだけの話だった。完全にラッキーだった。こんなことで股間に感謝する日が来るとは思いもしなかった。今だけはこのつるまんに素直にありがとうと言えた。
「さぁ、次はどっちや? なんなら二人まとめて相手してやってもええねんで?」
 調子に乗っていた。俺はそのまま残りの二人にフルボッコにされながら、涙目になってしまった。
「コラー! お前らー! 何をしとるかー!」
「やっべ。ゴリラだ。アイツに見つかるとやべぇ。逃げるぞ!」
「あぁ。くそ。せっかくいいカモみつけたのによ。覚えてろてめぇら!」
「………………」
 さっきまで俺を殴ったり蹴ったりしていた二人はそのまま地面に倒れ伏すもう一人の生徒を担いで路地裏に消えていった。背後を振り返ると、鳴沢と山口が立っていた。
「須巻氏も馬鹿な人ですね。まぁでもその勇気は認めますよ。でもあの手の手合いにハッタリをかますならもう少しマシな文句を考えてくださいよ。そもそも多対一という方式はですね……」
「大丈夫かい? 君はもう少し冷静な人かと思っていたんだが、意外と感情的に動く人だったんだな。私達が来るのがもう少し遅かったらこの程度の怪我では済まないところだったぞ」
「あぁ……サンキューな山口。ついでに鳴沢」
「ついでとは。僕の声のおかげで、助かったというのに……」
 どうやら、桜木が連絡を取り付けたのは、俺がつい最近仲良くなった変人達だった。鳴沢の七色ボイスのおかげで助かったのは癪だが、奴は一体どこから他校の情報を引き出したのだろうか。おそらく桃城高校の先生の声だと思うんだが、あんな一言でアイツらが逃げるなんて……俺の苦労は一体……。
 山口は俺の怪我を見るやいなや早急に見事な手腕で手当てをしてくれた。山口を呼んでくれたのは正解だ。というか山口だけで良かったのに……。
 そんな山口と鳴沢の後ろで、今にも泣きそうな顔の桜木がぽつんと立っていた。俺はそれを見て。カッコ悪いところ見られちまったなぁと場違いなことを考えていた。
 結局、無駄に怪我をしたのは俺だけで、実際にからまれていたゆとみは無傷。桜木との大事な話もうやむやになってしまい、踏んだり蹴ったりだった。

「ていうかお前。なんであんな所でからまれてたんだよ」
 次の日。教室で俺はゆとみに文句を叩きつけていた。俺はその程度の男である。
「ごめん。ごめん。なんかさ。普通に歩いてるだけだったのに向こうから寄ってきてさ」
 なんて明るく言うが、実際に被害を被ってるのは俺ひとりだった。まぁでもいいか。こうやって笑えるだけマシかもしれないな。ゆとみはちょっと世間離れしすぎてる節があるからな。家が地味に金持ちなのも影響しているんだろう。桃城の生徒がそれを自覚した上でゆとみを襲ったのかどうかは分からないが、少なくともコイツは見ていて危なっかしい。昨日の今日だから、念のため今日は一緒に帰ってやるか。
「なぁ。ゆとみ。今日は一緒に帰るか?」
「え?」
 いつもなら素直に頷くゆとみだったが、なぜか今日に限ってイタズラが見つかった小学生みたいな顔で固まった。
「おい。どうした。俺と一緒に帰れない理由でもあるのか?」
「あー……いやえっと……今日は部活でその……」
「はぁ? お前が部活に入ってるなんて初めて聞いたぞ。なんの部活だ?」
「えっと……部活じゃなくて……同好会かな……」
「どっちだよ!」
 おかしい。こんなゆとみは初めてだ。まるで俺と帰るのを嫌がってるような。まさか俺嫌われたのか! そんな昨日あんなに必死で俺にしがみついてきたのに! やっべ思い出したらちんこた……つわけなかった……二重の意味で。
「まぁ無理にとは言わないが……」
「すまん。また今度一緒に帰ろうぜ!」
 それっきり、ゆとみはいつものゆとみに戻った。一体何だってんだ?
 自分の席に戻ると見慣れない白い封筒が丁寧に机の上に置かれていた。まさかこんな堂々とラブレターを置いていく奴が世の中にいるなんて! と思ったがそんなわけない。開けてみると中の手紙にはこう書かれていた。
『大切な話があります。放課後皆がいなくなってしまったら教室に戻ってきてください。桜木』
 可愛らしい丸文字で、桜木からの果たし状がきていた。
「ってなんでやねん!」
 思わず立ち上がって盛大につっこみを入れる。ここぞとばかりに。手紙という無機物につっこむのもみっともないが、普段我慢してるんだからこれぐらい許されてもいいだろう。
「で? 須巻。私の説明のどこが分からなかったのかな?」
「え?」
 顔を上げると数学の教師が眉間に血管を浮かばせながら俺を睨んでいた。
「す、すいません。俺の勘違いでした」
 そのあと教室中の失笑を買ったのは言うまでもない。この手紙をよこした桜木本人までぷるぷると背中を震わせて静かに笑っていた。おのれ許すまじ、桜木。
 放課後になり、俺は皆がそそくさと帰宅するのを自分の席でひたすら眺めていた。前の席を確認するが、桜木はどうやら一旦教室を出て行ったようだ。おそらく人が捌けたら戻ってくるのだろう。そんなめんどくさいことをいちいちやってられるか。俺は不貞腐れながら、桜木が戻ってくるのを待つことにした。
 ふと、目線の端にゆとみが映った。教室を出て、下駄箱とは真逆の方向へ歩きだしたので、俺は今朝のやりとりを思い出した。
「そういや、アイツ部活がどうのこうのって言ってたな。ふむ。まだしばらくダベってるやつもいるし、時間つぶしにアイツがどこに行ったのか見てくるか」
 俺は重い腰を上げると、教室を出て、ゆとみが歩いていった方へ足を踏み出した。しばらくすると、人気の少ない棟にやってきていた。ここら辺は化学実験室のあたりだ。アイツこんな所に一体何しにきてるんだ。
 ふと、立ち止まると化学実験室の辺りから黒っぽい煙が出ている。まさか不審火!? そう思った俺は勢い良く実験室の扉を開けた。するとそこには――
「ゆとみ!?」
「げ、聡一!? なんでここに!」
 俺のゆとみが魔法使いの成り損ないみたいな格好をして、変な模様の円陣につっ立っていた。とうとうおかしくなっちまったか。ゆとみ。かわいそうに。
「なんて、俺が言うと思ったか!」
「え? 突然意味わかんないよ。聡一」
「分からないのはこっちだ。これは一体どういうことだ?」
 俺はたじろぐゆとみに詰め寄った。ゆとみは観念したように涙目になって土下座してきた。
「ごめん! 聡一。君のおちんちんと俺のおまんまんが入れ替わったのは俺のせいなんだ!」
「……………………………………は?」
 超展開きたこれ。俺の脳みそが沸騰しそうだ。もうどこから何をつっこめばいいのか分からない。ゆとみが犯人? いやまて、ゆとみは男じゃないのか? なのに、おまん……げふんげふん。おかしい。何かが狂ってる。目が覚めて起きたらきっとすべて元通りだ。さぁ目覚めろ俺。こんなワケの分からない夢をみているぐらいならさっさと目覚めろよ俺!
 俺は自分の頬を引っ張ってみるが全然痛くなかった。それもそのはずだ。その程度の刺激で痛みを感じないほどには俺も相当混乱していた。
 そんな俺を見かねたのか、ゆとみはおもむろにズボンを脱ぎ始めた。ゆとみのその仕草は男のソレというよりはまるで女性が好きな男の前で恥じらうように着脱する姿に似ていた。
「これでどう? 見覚えあるだろ? このおちんちんのホクロ」
「お、俺のチンコー!」
 そこにあったのはまごうことなきマイサン。まさかこんなところで再会できるなんて。ありがとうゆとみ。俺は君に感謝――
「するわけねぇええええええええええええええ! きちんと俺に分かるように説明しろゆとみぃいいいいいいいいいいいいい!」
「ひぃいいいいいいい。ごめんなさぁあああああい!」
 一通り暴れて落ち着いたところで俺はゆとみから事情を事細かに聞き出した。ダラダラと説明するのもページ数を使うので。要約するとこういうことだ。
「つまりなんだ……お前はほんとは女だけど男として育てられて、今の今までおちんちんがない人が男だと思ってた。でも高校に入学して初めて男にはちんちんがあるものだと知った。遅いなおい」
「えへへ」
 そこ笑うところじゃねぇからな。
「でも今更女と名乗るわけにもいかず。にっちもさっち行かない時に、黒魔術にハマッタと。飛びすぎだろ」
「飛んでないよ?」
 そうじゃねぇよ。発想が飛びすぎって言ってるんだよ。
「黒魔術で呼び出した悪魔に、おちんちんがほしいと言ったらほんとに生えてきたと。でも自分はまだ女のまま。おかしいなと思ってよく見たら下半身だけ男になっていた。なんでやねん」
「だから俺、悪魔に確認したんだよ。このおちんちんどっから持ってきたの?って」
「そしたら、その悪魔は俺の名前を口にだしたと。なんでやねん」
「ごめんね。俺もまだ上手く黒魔術使えないからさ」
「そういう問題じゃねぇよ!」
 どういう神経してるんだコイツは。自分のやったことの重大さに気づいてないのか。そもそもなんだ黒魔術って、山口が言ってたのはやっぱり当たってたってことかよ。それよりなんだ鳴沢のやつ。あいつは女が犯人だって言った癖にこの反則技はないだろ。ゆとみは誰がどう見ても男……とよく考えてみれば男とは思えない描写がそれなりにあった気がする。
「分かりにくいんだよ。伏線が!」
「何の話?」
「こっちの話だ」
 あれ? じゃあこれでもう問題は解決したも同然じゃね? ゆとみが女だったのは驚きだけど、黒魔術で俺とゆとみの下半身だけが入れ替わったのなら、また同じように黒魔術で俺とゆとみの下半身を入れ替えてもらえばいいだけの話じゃないのか。
「よし、ゆとみ。この際だ。もうやってしまったことは忘れるとしよう。とにかくこのままじゃ俺が不便だから元に戻してくれないか。それでチャラにしようじゃないか」
「うん。ソレなんだけど。なんかあの悪魔もう出てこなくなちゃった。てへっ」
「ふーん…………そうなんだ…………へぇー…………」
「怖いよ。聡一。ここはちゃんとつっこんでよ!」
「つっこめるわけねぇだろ馬鹿! どうするんだコレ! 一生このままかよおい」
「俺はこのままでもいいんだけど……」
「お前はそれでいいかもしれんが、俺の立場も考えろって話だよ!」
 なんてこった。ゆとみの馬鹿は頼りにならない。黒魔術というワケの分からないもので、俺のビッグマグナムは今ゆとみのビッグマグナムと化している。そして俺の股間にゆとみの可愛いつるまんが……
「そういや、お前って毛生えてないのか?」
「べ、別に生えてなくてもいいんだからねっ!」
「ソレ使い方間違ってるぞ……」
 生えてないことはやっぱり恥ずかしかったのか。まぁたしかにこの年にもなってこの見事な毛なしはある意味すごいな。うん。そうか、ゆとみは女だったかー。
 ん? 何か重大なことを忘れている気がするぞ?
「ってまずい! そろそろ教室に戻らないと桜木が!」
「え? 桜木さん。聡一に用があったの? じゃあ引き止めるのも悪いね。はやく行ってあげなよ。聡一」
「あぁ。そうするか……っててめぇも一緒に来い! 話が済んだらお前にはいろいろ説教しなくちゃならんことがあるからな!」
「えー! そんなー!」
 グズるゆとみの首根っこを引っつかみながら俺は自分の教室へと戻った。
「いいか? ここで大人しくしてろよ? 逃げたらあとでどうなるか分かるな?」
 ゆとみをこれでもかというぐらい脅して、俺は一人教室の中へと入っていった。
「よ……よぉ。待たせたな」
「…………私も……今きたところだから……」
「そうか……」
 まずいぞ。ゆとみが犯人と分かったからには、つまりコイツは犯人ではない。となると、俺をこうして呼び出す意味は一つしかない。それはつまりこくは――
「実は……私……須巻くんのことが……」
 ゴクリと飲み込む唾。高なる鼓動。俺は今猛烈に青春している。
「だめー!」
「え?」
「…………あ」
「よろしい、ならば今度はコイツと交換だ」
 まばゆい光が俺たちを包み込む。生暖かい感触が俺の体中を這いずり回り、そして何か得体の知れないものが目の前を飛び交っていた。ゆとみはソイツのしっぽを捕まえながら必死で何かを叫んでいる。おや。桜木の様子もおかしい。なんだか、すごく息苦しそうにしている。そうだ、俺が側に行って介抱してやらないと。これからは俺と桜木は世間一般でいうこいび――
「ふぅ。お仕事完了。ではさらば」
「いっちゃだめーーーー!」
 ゆとみの金切り声とともに視界がクリアになっていく。俺の目の前にはとても凛々しいお姿の桜木が……
「須巻くん……その胸……」
「え?」
 俺の胸に二つの大きな風船。嫌だなぁ。誰かな? こんなイタズラしたのは。俺は正真正銘普通の男……
「桜木……お前……胸どうした……」
「や……見ないで……」
 桜木の豊かだった胸は今はもう見る影もなく、もはや絶壁と言っても差支えがなかった。何より顔もずいぶん男らしくなり、まるでほんとに男になったかのような……
「ごめん。聡一。なんか悪魔が、上半身まで入れ替えちゃった」
「そうか。そうか。お前の仕業か。うん、怒ってないぞ。俺全然怒ってないからな」
「怒ってるよね! ソレ絶対怒ってるよね!」
「あの! 須巻くん!」
「はい?」
 ゆとみをとっちめようと腕を振り上げたとき、彼女は言った――。
「好きです。付き合ってください。こんな姿になってしまったけど、私は貴方のことが大好きです」
「へ?」
「やったね。聡一! 彼女ゲッチュウ!」
「ダマレ!」
「ぐはぅ!」
 ゆとみに顔面パンチを食らわせつつ俺は夢でも見ているかのような気分に陥った。いやでも夢のほうが良かったのかもしれない。少なくともこの異常な状況で唯一まともな感覚をしているのは俺だけのはずだった。
「あー。桜木。お前の告白は素直に嬉しいし。俺もお前と付き合うのはやぶさかではない。でもよく考えて欲しい。俺がまるごと女で、お前とゆとみが半分づつ俺の男の部分を持ってる状況ってのは一体どう受け取ったらいいんだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 俺は叫んだ。あらん限りの声で。
 
 そうして俺は見事に女体化に成功した。
 といっても、俺の上半身は桜木のソレで。下半身はゆとみのソレである。
 そして、桜木の上半身は俺のソレ。ゆとみの下半身は俺のアレであった。
 もう何が何だか分からないが、とにかく言えることはひとつだけ。

 俺の男を取り戻す旅はまだ始まったばかりだ。

 いつかきっと正真正銘の男になるために、俺は今日も女の格好で学校に通うのだった。

「お兄ちゃん、今日のぱんつはコレね!」
「いやぁー。あんたのセーラー服もなかなか様になってきたわね。そうだ。今日の髪型はツインテールにしようか。男子にモテモテよ」

「須巻氏、いい加減。そのふざけた体質をなんとかしたほうがいいんじゃないですか? そもそも僕はTSがそんなに好きではないと何度言ったら……」
「君の挑戦にはいたく感動している。まさか異性の気持ちを理解するために異性になるとは恐れ入った。これからもぜひ私にご指導、ご鞭撻のほど」

「きゃはははは。ツインテール! そういっちゃん。かわいい!」
「……聡一くん。これ……今日のお弁当」
「よっしゃ。聡一! 今日こそ悪魔呼び出そうぜ!」

「もう勘弁してください。というかさっさと終われよこんな物語。ちくしょおおおおおおおおお!」

 俺は吠えた。魂の底から。

 (俺が学園のアイドルになるのはこれまた別の話である まる)



― 完 ―

 


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テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

都市伝説『口裂け女』
「なぁ、知ってるか? 口裂け女の噂」
「知ってる。知ってる。この街にもついに出たんでしょ」
「そうそう、やっぱ噂どおり口がこーんなに大きく裂けててそこから空気がものすごい勢いで漏れてたってさ」
「やめてよ、想像しちゃうじゃない……」

 ココはいつだってこんなくだらない話題が渦巻いてる場所だった。俺は小学生ぐらいの子達が和気藹々とチュッパチャップスを食べならそんな嘘か本当かも分からない都市伝説について真剣に語り合うのを見てため息をついた。
 その子達にじゃない。そういう都市伝説を純粋に楽しめなくなった自分に対してため息をついたのだ。
 もう自分もいい年なのに、学生気分が抜けきらないのかまだこんなところに通っている。

「何にします?」
「ロイスパ十本」
「かしこまりました」

 ココは通称チュパバー。主に小学生から高校生ぐらいのお客を対象にした未成年版バーである。バーと名がついてるとおり、内装もシックで、どこかアダルティーな雰囲気を醸し出している。けれどここにアルコール類は一切置いていない。元々未成年を相手に商売しているのだからアルコール類なんて置くわけもないんだが、それでも大人になった気分を味わいたいという子供は大勢いる。
 そこに目をつけたココの店主は今流行のチュッパチャップスとバーを融合した新しい形態の店舗を開店。そしてそれは見事にヒットし、こうして学生達の間で評判が広まり、今では定番の学生の溜まり場として使用されている。
 チュッパチャップス自体の値段もお手頃なので、小学生でも気軽に来れるのが功を奏したのだろう。放課後の時間帯になるとぞろぞろと人がひっきりなしに入ってくる。
 だからといって柄の悪い連中が集ることはなかった。なぜならここにあるのはチュッパチャップスのみ。チュッパチャップスを好んで食べるヤツなんてどこか平和ボケしたヤツか俺のようにいつまでも子供気分を味わいたいと思ってる変わり者ぐらいだろう。
 だからここはいつだってこんなくだらない話題で盛り上がれる青春の掃き溜めだった。

「チョリーーーース! ケンちゃんおまた!」
「……………」

 いきなり背中に飛びつかれて、口に含んでいたチュッパチャップスを喉に突き刺すところだった。
 俺は背後にいる彼女……あぁ語弊でもなんでもないが、恋人という意味での彼女――照美の口に無言でチュッパチャップスを突き刺した。

「むぐぐぐ、ちゅむ……ちゅむり……けむちゃん、うぃきなりなにすゆの?」
「いきなりはお前だ馬鹿。もう少しで喉にチュッパチャップス刺すところだったろうが」
「めんごめんご、ちゅるり……ぺちゃぺちゃ……ちゅぽん! またロイスパかよケンちゃん!」
「好きなんだよ……わりぃか……」

 ロイスパとは、ロイヤルストレートチュッパチャップスの略で、この店では割と高価なタイプのチュッパチャップスだ。味はとても飴とは思えないほど甘くなく、それでいていつまでも舐めていたいような微妙な酸味を帯びている。ほとんどの人はこれをまずいと一言で済ませるが、こと俺に限ってはこれがもっともしっくりくる味だった。学生の頃からロイスパ一筋。まぁさすがに一日百本食べていた頃に比べたら今はだいぶペースも落ちたが、それでもこれが好きなことに変りはない。照美と付き合う以前からずっと一緒だったんだ……今更やめられるわけない。
 そんな俺に無理矢理口に突っ込まれたロイスパを文句言いながらも食べる照美は可愛いヤツである。俺の学生気分が抜けきらないのも案外コイツのせいかもしれない……なんて思うぐらいには俺も十分平和ボケしていた。

「ねぇ、ケンちゃんはもう聞いた? あの噂」
「口裂け女の話だろ、それならココにきてからもう三十回ぐらいは聞いてるよ」
「えーつまんなーい」

 本当につまらなさそうな顔をする照美を見て、俺はなんとか話を繋げようと試みるが、俺が口裂け女の都市伝説について知ってることはほとんどといっていいほどなかった。
 だから昼からココにいる俺が他の客達から漏れ聞こえる噂話の中で特に印象に残っていた話を振ってみることにした。

「じゃあさ、お前口裂け女が目の前に現れた場合、どうやって撃退すればいいか知ってるか?」
「あ、それ知ってる、知ってる! あれでしょ、べっこう飴渡すの!」
「え? 俺が聞いたのはポマードぶつけるってやつなんだけど……」
「ちょ、ナニソレひどい。仮にも女性にそんなのぶつけるなんてケンちゃん最低」
「最低ってお前……相手は口裂け女……」

 女ってのはどうしてそうすぐに感情論に走るのか……そもそも実在するかどうかもわからない人間にポマードなんてぶつけようもないのに……いや待てよ、そもそもポマードをぶつけるってなんだよ……よく考えたら口裂け女じゃなくてもポマードぶつけられたらそりゃ誰だって怯むだろ……これだから都市伝説ってのは……。

「なに、ケンちゃん嫌そうな顔して、あーわかった! もしかしてケンちゃん口裂け女ってほんとは可愛いかもしれないとか思ってるんでしょ」
「はぁ? 何を言ってるんだお前は?」
「可愛くない彼女で悪かったですね。いいもん。ケンちゃんじゃなくても男は他にもいっぱいいるもん」
「おい、照美……」
「ぷん」

 コイツの頭の中は一体どうなってるんだ。展開をいろいろすっとばしすぎだろ。さっきの発言からどうやれば俺が口裂け女を可愛いなんて思うんだ……いやでもそれだけ強く嫉妬してくれてるってことは男として冥利に尽きるってことも……いやいやいや。

「マスター。ベリチュパ一本コイツに」
「かしこまりました」
「え? ケンちゃん……私のために……」
「あぁ、ちゃんと味わって食えよ」
「わぁ! ありがとうケンちゃん大好き!」

 さっきまでの不機嫌はどこへやら。またしても思い切り抱きついてくる照美を見て、つくづく俺達は似たもの同士だなぁと思った。
 だって俺も照美もぶっちゃけ都市伝説の話なんてただの口実でしかなくこうやってイチャイチャできれば何でもいいと思ってるだけなんだから。
 その後も俺と照美はひたすら無駄話に花を咲かせつつ、俺のバイトの時間までずっと二人でイチャイチャしてるのだった。

「さてじゃあ、そろそろ行くかな」
「えーもう……。明日はいつ会える?」
「今日と同じぐらいかな」
「そっか……うんじゃあ気をつけて」
「おう」

 照美とは毎日会ってるけれど、ほんのちょっとでも会えない時間があるとやっぱり寂しさを感じてしまうのは俺達がバカップルだからだろう。ほんとは四六時中ずっと一緒にいたいとは思ってるが、そんなことは不可能に近い。
 照美も俺と同じようなことを考えてるのかその表情は暗かった。

 照美が小さく呟く。

「口裂け女……」
「ん?」
「もし見かけても絶対近づかないで」
「なんだ、お前その話本気で信じてるのか。ったくただの都市伝説だろ。そんな本気で……」

 するどい目つきで見上げてくる照美を見て俺はゴクリと喉を鳴らした。

「いいから、もし見かけても絶対近づかないで。私のお願い。ケンちゃんなら守ってくれるよね?」
「あ……あぁ。守るよ」
「良かった。じゃ、気をつけていってらっしゃい。ばははーい」
「…………」

 最後はいつもみたいな無邪気な笑顔を見せて、店を出て行く照美。俺はしばしあっけにとられてその場を動けなかったが、マスターに言われて時間を確認すると慌てて俺も店を飛び出した。
 バイト先まではここからそう遠くないが、少し急がないとまずい。照美との別れを惜しんだのがいけなかったのか、俺は駆け足で公園のすぐ傍を通り抜けようとした。
 すると、目の端に見てはいけない何かが映ったような気がして思わず足を止める。

 ――止めなきゃ良かったと後悔するまでにそう時間はかからなかった。

「わたし……きれい?」
「ひっ」

 そこにいたのは――夏だというのにロングコートにその身を包み込み、顔は大きなマスクで覆われていて目つきはするどく、髪の長い女だった。
 俺は思わず悲鳴を上げそうになったが、これが単なる俺の勘違いだとしたら相手の方に迷惑なので、俺は何も言わずにその場から脱兎のごとく逃げ出した。

 「ありえないありえないありえないありえない」

 何かの呪文のように口にだしながら俺はさっき見た光景を必死で忘れようと努力した。気づけばバイト先にいて、なぜか時間もいつもより余裕だった。それだけ全力で走ってきたのだろう。疲れを感じないのはきっと感覚が麻痺してるから。気持ちが体に追いついていないといったらいいのか……。
 とにかく俺は口裂け女なんてものは信じていない。そもそもそんなのがほんとにいたら今頃日本中がパニックだ。ただ世間の口裂け女のイメージがロングコートにマスクだなんていう単純化されたイメージのせいで、ほんとにそんな格好をすれば誰だって一時的に口裂け女のマネゴトはできる。
 仮にマネじゃなくても普通に風邪をひいたりしてればマスクはするし、夏だけど寒くてコートぐらい羽織るだろう。チュパバーで聞いた照美の言葉を真に受けるのもどうかしてる。あれは照美の嫉妬から出た忠告じゃないか。そうだよ、照美が変なこと言うから勘違いしちゃっただけなんだ。

「そうだよ。そうに違いない……ぶつぶつ」
「あのー……店員さん?」
「はっ! すいません。少し考え事を……っ!」
「コレ頂けるかしら」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 レジに現れたのはさきほど公園で見かけたロングコートの女。なぜここにいる。俺を追ってきたのか。くそ何たる失態だ。あれだけ照美に近づくなと忠告されていたというのに。これじゃあ照美に会わせる顔がない。もうダメだ。俺はここで死ぬんだ。さよなら照美。ありがとう照美。君に出会えて俺は幸せでした――

「ぷ。あははははははは」
「ひどいですよ聡美さん。そんなに笑うことじゃないでしょう」
「だって、ケンくん。私のこと口裂け女って本気で、ぷふふあはははははは。はっくしょん!」

 事の顛末を簡単に記すとこうなる。俺が見かけたのは正真正銘ただの人で、この今目の前で大笑いしてる聡美さんって方が口裂け女の正体である。
 コンビニに来たのは栄養ドリンクを買いに来たからで、マスクは本当に風邪をひいてるからという単純な理由からだった。
 あのあとコンビニでぶったおれた俺は店長にひどく怒られて、今日は早引きすることになり、なぜかコンビニをでると外で聡美さんが頭をさげにやってきた。
 で、こうしてお互いの誤解を解き、今に至るってわけである。

「ごめんね。こんな変な格好してる私も私だもんね。ちょっと気遣いが足りなかったわ」
「いえいえ、それを言うならオレの方こそすいません。見ず知らずの人を勝手に口裂け女だなんてわけ分からない存在に勘違いしちゃって。そもそも俺が勘違いしなければ聡美さんには迷惑はかけなかったんですから」
「優しいのね。ケンくんは」
「いえ、そんな……」

 コートの中からチラリと見えるその谷間は照美と比べるまでもなく明らかにビッグバンだった。聡美さんが俺の視線に気づき慌てて目線を逸らすも遅かった。

「気になる? コートの中」
「あ、いえ。えっと……」
「貴方、嘘つけないタイプね。顔にでてるわ」
「す、すいません」

 あまりの恥ずかしさに顔から火が出そうだ。聡美さんはとくに怒った様子もなく妙に艶っぽい表情を浮かべながらこう言った。

「コートの中は裸なの」
「え?」

 思わず振り向いてしまって、聡美さんのイタズラっぽい笑顔が目に飛び込んできた。

「ケンくんって単純なのね」
「か、からかわないでください」
「ごめんごめん。見た目より子供っぽいのかなと思ってついイジワルしたくなっちゃった」
「…………」

 どうやら俺には女難の相でも出てるようだ。照美しかり聡美さんしかり、まるで女性の手のひらの上で踊ってるようである。それでも聡美さんみたいな人の手のひらで踊れるなら悪くないなとも思った。
 そうやって心の中でにやにやしてると急に頭に照美の怒った顔が浮かんだので慌てて打ち消した。

「じゃ、じゃあ俺そろそろ帰りますんで」
「あらごめんね。無駄に引き留めちゃって」
「いえ、こっちこそお話できて良かったです。あのままだとずっと勘違いしたままだったので」

 苦笑いを浮かべる俺に聡美さんは優しく微笑み返してくれた。

「聡美さんも気をつけて帰ってください。風邪早く治るといいですね」
「ケンくんも道中、口裂け女には気をつけてね」
「ははは、もう大丈夫ですよ。さすがに二回も同じ過ちは繰り返しません」
「そう、ならいいのよ……」

 一瞬影のある表情を見せた聡美さんだったが、俺はとくに気にした風もなくそのまま踵を返す。

「口裂け女は嫉妬深いのよ……」

 聡美さんが何か呟いたようだけれど、声が小さくてよく聞き取れなかった。
 俺は聡美さんに手を振り、そのまま何事もなく帰宅したのだった。

 その後も俺はバイトが終わると聡美さんとちょくちょく話すようになった。バイトが終わるとなぜか待ち合わせたかのように偶然聡美さんと会うことが多くなったのだ。
 聡美さんの職場が近くにあってちょうど俺のバイトが終わる時間と聡美さんが帰る時間が合うそうで、こうして二日に一度程度だがあの公園で他愛ないことを話あっていた。
 バイトじゃなくてやっぱり就職した方がいいとか、男ならもっと度胸をつけろとか、彼女がいるのにこんなおばさんと仲良くお話してていいのかとかいろいろ年上の女性らしい意見を言われて俺はいつもたじたじになるのだった。
 でも聡美さんと話しているといろいろな悩みがほんとちっぽけに思えてきてすごく楽になる。自分みたいな大人になりそこねた中途半端な存在には、こうして無理矢理引っ張り上げてくれるような人が必要なのかもしれない。
 勘違いから始まった出会いだけど、今ではその出会いに感謝すらしている。
 これもすべて口裂け女のおかげかもしれない。あの話を聞いてなかったらきっと聡美さんとも出会っていなかったかもしれないのだから。

「どうしたのにやにやして。何か良いことでもあったの?」
「え?」

 振り向くとそこには不機嫌な顔した照美が立っていた。
 やべぇ、もうそんな時間か。ここ最近はチュパバーに来ても聡美さんのことを考えていたから気を抜くとすぐに照美の存在を忘れがちになってしまう。
 さすがの照美もそろそろ感づいてる頃だろうし、ここで下手な言い訳をしても余計に拗れるだけだ。
 俺は仕方なく今考えてたことをそのまんま照美に話した。けれど――

「なにそれ。信じられない。私という女がいながらケンちゃんずっとその人と付き合ってたの?」
「ば、ばか。付き合ってるとか付き合ってないとかそんな関係じゃねぇよ。たまに話聞いてもらってるだけだろ。友達だよ友達」
「ふーん」

 ものすごく納得してなさそうな目で見下ろしてくる照美をなだめながら、俺はマスターにベリチュパを数本注文した。これで照美の機嫌が直るとも思えないが、何もしないよりはマシだろう。
 照美は目の前に出されたベリチュパを無言で舐め続けながら、俺の手をぎゅっと握りしめてきた。
 やっぱりまずいよな。これは完全に俺が悪い。ほとぼりが冷めるまでしばらく聡美さんとも会わない方がいいだろう。
 俺は心の中でそう決心すると笑顔で照美に向って言った。

「今夜、俺ん家で待ってろよ。コレ合い鍵。バイト終わったらすぐ帰るから。今日はお前のために限界までハッスルだぜ!」

 どっかのペコちゃんみたいな顔で親指をグっと立ててみる。我ながらすごくアホな姿だと思う。でもこれが照美にとっては一番効果的なのだ。

「ほんと? 私全裸で待機してるから! ケンちゃんが来るまで全裸で待ってるから! キャホホーイ!」

 突然全身を震え上げて喜ぶ照美を見て店内は若干ざわつくが、別に今に始まったことでもないのですぐ治まった。これでひとまずはしのげるだろうと俺は安堵のため息をついた。
 それからバイトの時間まで超ご機嫌になった照美の相手をして、すっかり疲れ果てて、それを見かねたマスターは俺に無言でロイスパを握らせ、俺は涙をちょちょぎらせながらマスターにお礼を言い、その気合いでバイトもフルボッコにして、いざ帰宅しようと公園の前を全速力で通り過ぎようとすると、いきなり目の前に柔らかいクッションが――

「ぶへあっ!」
「きゃっ!」

 俺は盛大に尻餅をついた。ぶつかった相手もどうやら地面に倒れたらしく、コートに隠れた大きなその胸が激しく揺れ――

「って聡美さんじゃないですか! 大丈夫ですか!」

 俺は慌てて立ち上がり、腰をさすっている聡美さんに手を差し伸べた。

「すいません。ちょっと急いでたもんで……」
「いいのよ。前をきちんと確認してなかった私も悪いのだから」

 聡美さんはいつものようにその優しい笑顔で俺の手を握り替えしてきた。温かい。人の手ってこんなに温かいんだ。

「ケンくん急いでたようだけど、何かあるの?」
「あ、はい。今日はそのえっと彼女さんと……」
「あらあらまあまあ。うふふ。それはお楽しみの邪魔しちゃ悪いわね。今日はここでお別れね」

 何か含みのありそうなイタズラな笑顔で聡美さんが茶化す。俺も照れ笑いしつつ、ぶつかっておいて何もせずに帰るのは忍びないと思い、ごそごそとポケットを漁っているとバイトに行く前にマスターにもらったロイスパが一本見つかった。

「今日はコレで。この埋め合わせは必ず!」
「チュッパチャップス?」
「はい、俺のお気に入りです。ぜひ聡美さんも」
「ありがとう。もらっておくわ」

 聡美さんがロイスパを快く受け取ってくれたのを見送ると俺はそのまま自宅に向けて走り出した。

「うふふ。私に飴なんて……嫌われてるのかしら……いいえ、その逆ね……。これは――」

 またもや聡美さんが何か言ったようだが、俺は上手く聞き取れずにそのまま聡美さんに手を振って別れた。
 家に着くと電気はついておらず、鍵もしまっていたので「照美はまだか、よかった」と安心して玄関を開けた――でも――

「おかえりケンちゃん」
「え?」

 暗闇に立ちすくむその姿はまるで何かの異形をそのまんま再現したかのような不自然な姿だった。およそ屋内でその格好はまずないと思われることから明らかに異常だと脳が警告を発している。
 けれどその声には聞き覚えがある。どう聞いても俺が知っている声で、俺以外にこの家に入れる人物と言えば一人しかいない。
 だけど、それにしたってコレハイッタイナンノジョウダンダ?

「口裂け女にはあれほど近づくなって言ったよね?」
「お、おい。お前なんでそんな格好……」
「私の話を無視しないで。口裂け女には近づくなって言ったよね?」
「あ、あぁ。言ったけど。俺、別に口裂け女とか会ったことないし……」

 あまりの迫力に気圧されて俺は正直に照美の質問に答えた。ロングコートにその身を包み、まるで人を見下すようなするどい目つきでこちらを威圧する照美。マスクはしていないものの、その姿から連想されるものはただ一つ……

 ――口裂け女そのものだった。

「ねぇケンちゃん。本当の口裂け女って見たことある?」
「本当の? な、何言ってんだよ……さっきも言ったけど俺、口裂け女なんて見たことないし会ったことも……」
「じゃあ私が見せてあげる。本当の口裂け女が一体どんなものなのか……」
「あ、あれか。聡美さんと会ったことを怒ってるのか? だとしたらとんだ勘違いだ。今日はほんと偶然だ。いやいつも偶然だけど、今日はほとんど話もしてないし、そ、それに俺はお前のために急いで帰らなくちゃいけないって聡美さんに宣言してきたんだ。だ、だからそう怒るなって……話せばわかる……な? と、とりあえずそのコート脱いで落ち着こうぜ。なんか今のお前ほんと口裂け女みたいで……」
「――わたし、きれい?」

 パサリとコートが床に落ちる音と共に目の前に現れる信じられない光景。脳のあらゆる情報を探ってもそんな光景は今までにだって見たこともなかった。幽霊が本当にいるならきっとこんな感じだろうということでさえ可愛く見えるほどに今の情景は現実にはありえないほど恐ろしいものだった。
 もはや言葉すら出てこない。絶句とはまさにこういう状況のことを指すのだろう。自分はとても大きな勘違いをしていたことに今更気づいた。気づいたところで本当にどうしようもない。こればっかりはおそらく誰だって気づくことができないだろう。
 まさか口裂け女の口ってのがあんな場所にあっただなんて一体誰が予想できただろう。
 それは都市伝説の中でも最大のタブーとされているスク水という名の恐怖。あるいは支配。その絶対的な存在ゆえに隠匿され今日まで誰も触れようとさえしなかった最大の禁忌。それがまさか実在したなんてことがあっていいのだろうか。
 いやそんなことよりも、そんな些細な事実よりももっと重要な事実が目の前にある。

 口が裂けている。

 いやもっと正確に言うなればスク水が裂けている。
 破れているのではない。最初からそういう構造であるかのようにまるで自然にそこだけが大きく裂けているのだ。
 そこからかすかに空気が漏れ聞こえる音がする。シュコーシュコーと、静かに息をしている。
 まずいと思ってからは早かった。もう本能に近かった。俺はそのまま全力で玄関を飛び出し、さっきまで走ってきた道を全速力で駆け戻る。
 あそこにいたらまずい。いやアイツの前にいたら確実に食われる。
 乱れる息を整えもせずにただひたすら逃げる。追ってきてるかどうかを確認するために振り向くなんてとんでもない。そんなことをすればまず間違いなく振り向いた瞬間に終わりだ。
 前を見ろ。今は自分以外の他の誰かに出会うまでひたすら走るんだ。
 口裂け女が襲うのは目の前にいる人物ただ一人だけ。複数人でいると出会うことはない。たしかチュパバーで小学生達がそう話していたはず。
 科学的な根拠は何もないけど、少なくとも今一人でいるよりは何倍もマシであることは間違いなかった。
 とにかく誰でもいい。誰か、誰か俺の前に現れてくれ。そう願っていると突然目の前に誰かが立ちふさがった。

「あら、もしかしてケンくん?」
「…………」

 今度はぶつかる前に立ち止まれた。さっきよりも確実に慌てていたはずなのに、体は見事なほど聡美さんの手前でピタリと止まっていた。
 おそらく体力が限界にきてたのだろう。安全な場所を求めて走りまくった結果、視界にそれらしい人物を見つけて体は急激にリラックスし、もう大丈夫と判断して活動を止めた。
 しばらく息を整えるために聡美さんに話しかけることすらできなかったが、聡美さんは俺に何か事情があるのかもしれないと思ったらしく、無言で俺が話し始めるのを待ってくれていた。
 近くの公園のベンチで腰を落ち着けて、俺は隣に座る聡美さんにぽつぽつとしゃべり始めた。

「そう、そんなことがあったの……」
「え、えぇ。とても信じてもらえないかも知れませんが、アイツ……アイツが本当の口裂け女だったんです……お、俺、そんなことも知らずにずっと付き合ってて……でもまさかあんな化物みたいな姿で現れるなんて……」
「……………」

 自分でも何を言っているのか分からないけれど、一度話し始めたら止まらなかった。あんな体験二度としたくない。俺は困惑する聡美さんを尻目にひたすら言いたいことをぶちまけた。
 一通り言いたいことを言い終えると頭は冷静さを取り戻し、急に恥ずかしくなってきた。聡美さんにまた迷惑をかけたと思い、謝ろうと聡美さんのほうを振り向くと――

「ねぇ……わたし、きれい?」
「え?」

 逃げる隙さえなかった。なぜなら振り向いた瞬間に聡美さんに食べられてしまったのだから。

 視界は真っ暗で先ほどみた光景がフラッシュバックする。聡美さんのコートの下にも照美と同じスク水。しかも口がパックリと大きく裂けているあのスク水だ。その口が大きく開いたかと思うと俺は頭から一気にかぶりつかれていた。
 今更後悔しても遅い。ほんとどうして俺はいつまで勘違いし続けてきたのだろう。どこで間違えたのか。いやそんなのとっくに分かりきっている話だ。
 俺が分かろうとしなかっただけ。都市伝説が楽しめないのもそれを馬鹿にして現実を見なかったからだ。
 現実を見ていない俺はいつまで経っても中途半端な存在。こうして口裂け女に食われるまで自分が間違っていたことにさえ気づかない愚か者。
 それでも……それでも俺は照美や聡美さんが好きだったんだ。あんなに充実した日々を送れたのはあの二人のおかげだ。あの二人が口裂け女だからってそんなのはもうどうだっていい。こうして聡美さんに食われてしまった俺はもうこの世にはいないことになっているんだろう。
 意識が薄れゆく中、かすかに漏れ聞こえる誰かの会話を耳にした。

「ちょっとお母さん! ソレ私の獲物なんだけど……」
「あらごめんなさい。この子、私達のこと化物なんて言うからつい。うふ」
「あーその目、最初から分かって狙ってたでしょ。ひっどーい。私なんて数ヶ月も我慢してやっと食べ時だったのに」
「まだ半分しか食べてないから残りは貴方にあげるわ」
「いらない。もう興味ない。次の獲物探すもん」
「あらあら。まだまだ子供ねぇ……」
「ふんだ……」

 あーそうか。どこか雰囲気が誰かに似てると思ったら二人は親子だったのか。
 どおりで好きになるはずだよ。だって二人とも俺の大好きな――

「さて次の街へ行こうっと」

 闇夜に浮かぶ怪しげな女に出会ったらご注意を。次は貴方の街に現れるかも知れない。



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都市伝説『スク水ドッペル』
 この世には自分と似た人物が三人はいると言われているが、蓋を開けてみればなんてことはない。そのどれもが他人の空似の一言で済んでしまうぐらい他愛のないものである。
 けれど、こと私に限って言うなればそれはそんな生やさしい結論では済まされないぐらい切羽つまったものだった。
 
 なぜなら私は本当に――私にうり二つの人物――しかもまさかあんな姿をした自分をこの目で見るなんて思ってもいなかったのだから。

「チュッパチャップス食べる?」
「……いらない。それに何度も言ってるけど、私ソレ嫌いだし」
「ふーん。こんなにおいしいのに。ちゅる……ちゅぱ……んむっ」

 特になんてことはない学校での日常風景。私はすぐ前の席のクラスメイトであるヤマンバもとい、毛ばい化粧をしたユカを見ながらため息をつく。
 こういう奴は見た目通り本気で頭の中がお気楽なんだろうなぁと思いながら、私は自分の現在の状況をひどく呪っていた。
 誰に相談しても「それ、ただの他人の空似でしょ」の一言で済まされてしまう私の悩みはもはや一人でどうにかするしかない現状に追い込まれていた。
 けれど、今ここにいる――このお気楽そうなユカにはまだあのことを話したことはなかった。最初から諦めていたのだ。こんな奴に相談してもきっと他のみんなと同じ回答が返ってくるか、あるいわそれよりひどい訳の分からないことを言われて笑いものにされるかのどっちかだと勝手に思い込んでいたのだ。
 でもそれももう、限界だった。私は意識したつもりはなかったがついポロっとユカの前で余計な一言を零してしまった。

「ねぇ、あんたってさぁ……自分とまったく同じ顔の人ってみたことある?」
「ふえ? ちゅぽん」

 ひどい馬鹿面だった。
 言ってしまってから私は自分で何を言ってるんだろうと後悔せずにはいられなかった。
 ユカは不思議そうな顔をして、手に持ったチュッパチャップスと私の顔を交互に見ながら、こう返してきた。

「あるよ。あれでしょ。ゲッペルドンガー」

 ドッペルゲンガーだ。矢張り馬鹿だった。でも――

「あんた、それ本気で信じてるの? ドッペルゲンガーがこの世にいるってほんとに……」
「え? いないの?」
「………………」

 さもいることが当然のように聞き返してくるユカの表情になぜか私はひどく安堵した。
 一番まともに話を聞いてくれないと思っていた……いや単に思い込んでいた人から一番ほしかった言葉を聞けて私は少しうるっときてしまったのだ。
 それだけ精神的に追い込まれていたのだろう。突然ポロポロと涙を零す私を見てユカはおろおろしながら言った。

「ご、ごめん。チュッパチャップスやっぱりほしかったよね?」
「…………ばか」

 真剣な顔で的外れなことを言うもんだから、私は思わず吹き出してしまった。泣きながら笑う私を他のクラスメイト達は不思議そうに見ていた。
 私はそのあとも必死にチュッパチャップスを勧めてくるユカをなんとかなだめながら気持ちを落ち着けた。
 放課後になって、私はユカを私の家に誘った。ユカは快くついてきてくれた。
 普段そんなに一緒に遊ぶほうではないけど、ユカは気にした風もなく笑顔で私のあとについてきていた。

「ねぇ、前から言おう言おうと思って黙ってたんだけど、あんたなんで今頃ヤマンバ……っ、そんな毛ばい化粧してんの?」
「ほえ? ちゅぷり」

 またしてもチュッパチャップスと私の顔を交互に見ながら馬鹿面をするユカに呆れながらも返答を待った。

「えっと……ゲッペルドンガーじゃなかった……ドッペルンゲンガーに会いたくないから……かな」
「え?」

 思わぬ一言に私は冗談でしょと笑い飛ばすこともできなかった。
 濃い化粧をすればドッペルゲンガーに会わないというまじないは聞いたことないけど、そうしてまでドッペルゲンガーに会いたくないというユカの気持ちは私にも理解できてしまったからだ。
 でもだからってやっぱりここまで濃い化粧は……。

「ん? 何、私の顔に何かついてる?」
「いえ、何も……」

 私には無理かな。さすがに。

 そうこうしてるうちに私の家に着いた。
 ユカを私の部屋に案内して、私は二人分の飲み物を取りにいった。
 その間にすっかりユカは元通りのユカになっていて、初めて入った私の部屋をさっそく漁っていた。

「こら、人の部屋勝手に漁るな」
「だって~、なんか初めての部屋って物色したくなるじゃん?」
「なってもしないで。いくら同性でも女の子の部屋あさるのは感心しないわ」

 ユカは「はーい」とおどけたような返事をして、私が持ってきたジュースにすぐ飛びついた。その姿はまるで汚れを知らないような子供みたいだった。見た目に反してすごく幼い。それ故にユカの危なげさが目立つように思えた。
 それにさっきの一言。もしかしてユカもドッペルゲンガーに会ったとでも言うのだろうか。

「ねぇ……話したくないなら別にいいんだけど、そのあんた、ドッペルゲンガーに会ったことあるの?」
「ないよ」

 即答だった。まるですべてを否定するかのように異常なほど早い回答だった。でもソレもつかの間、ユカはニタァと笑うと私の顔面すぐそこにまで顔を近づけて言ってきた。

「チュッパチャップス食べる?」
「…………」

 その迫力あるヤマンバ顔を無言でグイっと押し戻しながらため息をつく。やっぱりユカはユカだった。これ以上追求してもきっと大した情報も出てこないだろう。まぁでもユカがドッペルゲンガーを信じてることが分かっただけでも素晴らしい収穫だった。

 そのあとも二人でひたすらダベりながら過ごした。学校めんどいよねぇとか、誰々に彼氏できたとか、今度できるショッピングモールで新しい化粧品が発売するとか。自分たちぐらいの年齢の女性ならしそうな話をひたすら絶え間なくしていた。
 その間は私もあのことについては忘れられたので、良い気分転換にはなったと思う。

 そうしてしばらくはドッペルゲンガーのことも意識せずにいられるようになった。これもすべてユカのおかげだと思うと複雑な気分ではあったが、やはり少しはきちんと目に見える形で感謝しないといけないと思い、私はユカを誘って映画を見に行くことにした。

「うわー、私これ超みたかったやつだー! いいの? ほんとに……お金なら私も出すけど……」
「いいの。今日は私のおごり。ユカにおごりたいの。それとも何、私のおごりは受けれないって言うの?」
「ううん。ありがとう!」

 無邪気に抱きついてくるヤマンバを今日だけは無碍にできない。私は恥ずかしいのを我慢してそのまま抱きつかれたまま映画館へと入っていった。
 その映画はとてもシンプルな恋愛映画だった。身分の違う男女が駆け落ちして誰もいないところで二人一緒になろうと奮闘する話だが、狙ったようにことごとく邪魔が入る。最後には結局女の人が両親に連れ戻されて男の人が謂われもない罪を着せられて牢屋にぶちこまれるという悲惨な最期だった。
 けれど、なぜか私の隣に座ってるユカは始終泣きっぱなし。ほんとこの子の感性は一体どうなってるのかわからない。
 まぁ少なくとも楽しんでもらえてることは確かなようだった。

「うわー、いっぱい泣いちゃった。面白かったね」
「そう。それはよかった。じゃあどっかで何か食べよっか」
「あ、待って」
「ん?」
「はい」
「…………」

 この子は学習力ってものがないのだろうか。何度も拒否してるのに懲りずに私にチュッパチャップスを手渡してくる。
 ここですぐに突き返すこともできたんだけど、今日はユカへのお礼を兼ねているので少し躊躇ってしまった。その間にユカは私の手を無理矢理こじ開けてチュッパチャップスを握らせてきたから、もう受け取るしかなかった。
 食べるかどうかは別にして、まぁもらっておいてもいいだろうと、そのままポケットに突っ込んだ。
 ユカはそれでも満足だったらしく、ニコっと笑うと私の手を自然に掴んでそのまま歩き出した。

 軽く昼食を挟んで、私達は適当にウィンドウショッピングを楽しむ。ユカも化粧はこんなだけど、アクセサリーとかのセンスは普通で安心した。やっぱりこの化粧は無理してやってるのかなとも思った。
 前にもちらりとそんなことを言ってしね。

『えっと……ゲッペルドンガーじゃなかった……ドッペルンゲンガーに会いたくないから……』

 あれはどういう意味だったんだろう。少なくともユカはドッペルゲンガーのことを信じてるのは確かだった。

「ね、プリクラ撮ろうよ!」
「いいけど、あんたこれで何枚目よ」

 道すがらプリクラ機があればことごとくそれに入ってプリクラを撮るユカ。さすがに私も三台ぐらいが限度だというに、この子ときたら、全部入らないと気が済まないみたいな勢いで次から次へと突っ走る。
 一日でこんなにプリクラ撮ったのは今日が初めてだ。頭を抱えつつも横でうれしそうに笑うユカを見るともう何も言えなかった。

「じゃ、そろそろ帰ろっか」
「…………」
「ユカ?」

 さっきまであんなにはしゃいでいたユカが急に静かになったと思ったら、ある一点を見つめてボーっと突っ立ていた。
 私は何気なくユカの視線を追ってみると、そこには――

「っ!?」

 ユカと同じ顔をしたもう一人のユカがいた。

「ひっ……いや……いやぁあああああああああああああああ!」
「ちょ、ユカ待ってっ――」

 それを見て錯乱したユカは私を置いてどこかへ走り去っていく。私もそれを慌てて追うが、もう一人のユカが気になって、ふと後ろを振り返る。
 でも、もうそこには誰もいなかった……あれは見間違い? いやそんなことはない私は確かに――
 その後、ユカを見つけたときにはもう日がすっかり落ちた頃だった。
 消沈するユカをこのまま家に帰すのは忍びないと思った私は、ユカを自分の家に泊めることにした。

「はい。ホットココア。これでも飲んで落ち着いて」
「うん。もう大丈夫。ありがとう……」

 ユカは大好きなチュッパチャップスに手をつけないほどひどく落ち込んでいた。
 沈黙に耐えれなくなった私はユカに今回のことを聞いてみることにした。ユカにしてみれば、あまり気分のいい話ではないかもしれないが。
 同じものを見たもの同士、何か解決策が見つかるかもしれないと思ったからだ。

「ねぇユカ……話してなかったけど、私もあんたと一緒でその……アレをみたことあるの……」
「…………」

 ユカは一瞬目を大きく見開いて私のことを見たが、すぐにその視線は下へと下がった。
 私はいたたまれない気持ちになったが、それを押し殺し、話を続けた。

「ドッペルゲンガー……いわくそれを見たものは死ぬ。自分とうり二つの存在。もう一人の自分。この世に自分は二人もいらない。ドッペルゲンガーが現れると必ずどちらか一方が消えていなくなるって言うけど……そんなのどこにでもある都市伝説の一つだよ。自分に似てる人なんて探せばその辺にごろごろしてそうだし。それに何より実際にドッペルゲンガーに会って死んだ人なんて聞いたことがない」
「…………」

 ユカを励ますための言葉でもあったが、それは間違いなく自分自身を慰める言葉であったことは否定しない。
 この恐怖感ってのは一朝一夕にぬぐい去れないことは何より自分がよく知っている。そんな程度の言葉で安心できるなら私だってこんなに悩んでいないからだ。

「誰も死なないよ」
「え?」

 突然ユカがしゃべり出したのでつい大げさにびっくりしてしまった。

「誰も死なない……ドッペルゲンガーはオリジナルと入れ替わるだけ。それだけ。同じ存在がただ入れ替わるだけだから死んだりしない。二人が一人になるだけ。自然の摂理……」
「…………」
「見た目が同じで、中身も同じなら入れ替わったって誰も気づきもしない。だからいつまで経っても都市伝説のまま。本当のことなんて誰にもわからない。それこそ入れ替わってしまった本人以外は……でもその本人はもうどこにもいない……ここにいるのはもう一人の自分。ドッペルゲンガーだけなんだから」
「やめてっ!」

 思わず大声をあげて立ち上がる私。ユカは私のそんな行動を気にした風もなくココアをちびちびと飲んでいた。
 私はそれをみて頭に血が上っていくのを感じた。

「あんた何言ってんの。そんなの死んだのと一緒じゃない! 自分が自分じゃなくなるのよ? それで本当に死んでいないって言えるの! そんなの私絶対に嫌! たとえドッペルゲンガーが私とまったく一緒の存在でも。今ここにいる私が私じゃなくなるのは怖い。そんなの耐えられない。なんでそんなこと言うの……ユカも見たんでしょ……じゃあ私の気持ちわかるよね。私はあんたが落ち込んでるから励まそうとして……ひぐ……んぐ」
「……ありがとう。ごめんね」

 感情の高ぶりを抑えきれなかった私を優しくユカは抱きしめてくれた。その日はそれっきりもうドッペルゲンガーの話題は出さなかった。二人して無言でベッドに入り眠った。
 起きたら枕元に小さなメモとチュッパチャップスが一つ置いてあった。私はそれを見てなぜかひどく不安になった。

「ユカ……」

 そこにはいない者の名前を呼んでみる。もちろん返答なんてなかった。
 不安は嫌な形で的中した。いつものように学校に行ってみたが、ユカの姿がどこにも見当たらない。
 散々探し回ったあげく、放課後になってもユカが姿を見せることはなかった。
 クラスメイト達にユカを見たか訪ねてみたが「またいつものサボリでしょ」ととりつく島もなかった。
 ほんと、なんでこの世は理不尽なのだろう。
 切羽詰まった状況なんて当事者だけしか理解できず、まったく関係ない他人にとっては取るに足らないこと。
 そこにどんな些細な異常があったとしても気づこうとなんてしない。
 そうユカが消えた今、これはもう私個人だけの問題になってしまったのだ。

 けれど、次の日。ユカはアッサリと学校に登校してきた。
 みんなもやっぱり昨日はサボリだったんでしょと冗談半分にユカに笑いかけていた。
 でも私はとてもじゃないが、みんなと一緒に和気藹々とできる気分ではなかった。

 なぜならそのユカは――

「はい。食べる?」
「い、いらない。前にも言ったけど、私ソレ嫌いなの」
「そう……ちゅぱ……んちゅ……ちゅぷり」

 あの毛バイ化粧を落としたユカがそこにいた。
 実際、私はあのユカしか見たことがなかったので、ユカの素顔を見るのはこれが初めてだった。
 でも問題はそこじゃない。たしかに化粧以外はまったくといっていいほどユカそのものだった。
 なのになぜか私は目の前のユカをまるで別人みたいに感じるのだった。
 気のせいならそれでいい。でももし今目の前にいるユカが本当に別人だとしたら――?

『見た目が同じで、中身も同じなら入れ替わったって誰も気づきもしない』

 いつか言っていたユカの言葉を思い出す。
 確かに見た目が同じで中身も一緒ならそれは本人以外の何ものでもない。
 でも私は知っている。ドッペルゲンガーってものがどういうものなのかを知っている。
 その上でもう一度ユカを確認してみる。

 やはり何かが違う。

 具体的にどう違うのかと聞かれても答えることはできないけれど、あえて言うなら勘。
 そう私の勘がコイツはユカじゃないと警告している。ほんのちょっとの期間だったけど私は本物のユカと一緒に過ごした。
 あの時のユカと今のユカでは致命的な違いがどこかに存在するのだ。
 だから私はその違いを見つけ出すために、あえて本物かどうかも分からないユカに積極的に絡んでいくことにした。

 ――それがとんでもない間違いだと気づきもせずに。

「ねぇ、プール行かない?」
「いいけど、この辺のプールはどこも人がいっぱいよ」
「大丈夫、私穴場知ってるんだ、えへへ~」

 油断していたと言えばきっとそうなのだろう。この無邪気な笑顔がとても偽物だと思えずに私はあっさりユカの誘いをオーケーした。
 当日はユカが案内してくれるということで、私はウキウキ気分でユカを待っていた。

「ごめーん。待った?」
「あ、うん別に待って――!?」

 なんで今頃。どうしてこのタイミングで。いやこれは単なるユカの気まぐれだろう。別に今までだってこういうことがなかったわけじゃない。けれどあまりにもタイミングが良すぎる。いやこの場合は悪すぎると言い換えてもいい。
 私は今の今まで忘れかけていた警戒心を一気に呼び起こした。なぜなら、ユカの顔が――

「どうしたの? チュッパチャップスほしいの?」
「え、あいや。別に。つか、あんたまたそれに戻したんだ……」
「あー化粧? うんまぁ外出るときは大概この化粧だよ私」
「なんで?」
「なんでって言われても……」

 私の様子がおかしかったのか、ユカのテンションも下がっていく。
 たかが化粧が濃いだけで動揺する私も私だけど、何もこんなタイミングで元に戻すユカもユカだった。
 ユカに連れられるまま、私はひたすら頭の中で考えを巡らせ続けていた。
 ユカと一緒にいればいるほど、まるで今のユカが本当に前のユカとうり二つでどんどんと否定のしようがなくなっていく。
 ドッペルゲンガーとの違いを発見するどころか、むしろそれは限りなくゼロに近づける行為でしかなかった。
 いつしか、私はもうユカが本物だろうと偽物だろうと一緒にいれればそれでいいとさえ思うようになっていたのだ。
 それにその頃から私は私のドッペルゲンガーを見ることはなくなった。
 万々歳じゃないか。ドッペルゲンガーなんて初めから存在しなかったのだと証明されたのだから。
 ユカもいて、私もここにいる。化粧だっていつも同じだと飽きるからたまに変わったっていいじゃないか。
 これ以上何を否定しようというのだ私は。
 だからこれは喜ぶべきことなのだ。ユカは本物で、私はドッペルンゲンガーをただの都市伝説として片付けることに成功した。

 そうそれで良かったんだ。それで――

「何。ふざけてんのよ……」
「え? 何?」
「何、ふざけてんのよあんた!」

 私の怒りはこの時頂点に達していた。だってそうだろう。私は今自分できちんと自分の気持ちに整理をつけたのに。なのになんでコイツはこんなふざけた格好をしている? 
 いくら友達でもやって良いことと悪いことの区別ぐらいついてもいいものだ。いやこれはそもそもそんな生易しいものですらなかった。

 なぜなら彼女の着ているその水着があろうことか――スク水だったのだから――

「やめてよ。なんでそんなものがこの世に存在するのよ」
「………………」
「そんなの都市伝説よりひどいじゃない。いいえ、都市伝説そのものだわ」
「………………」
「あんたやっぱりユカじゃなかったのね。こんな裏切りってひどい。騙すなら最後まで騙してよ……なんで今このタイミングで私の前に現れるのよ!」
「………………」

 ヒステリックに叫び続ける私をユカはどこか虚ろな目で見つめ続けていた。やがてそれも飽きたのか、一本のチュッパチャップスを取り出し口に加えると、ニヤリと笑った。

「あーあ。やっぱこの程度か……せっかく面白くなりそうだったのに。やっぱこの程度でみんな壊れちゃうんだ」
「………………」

 もうそれはまるでユカじゃない。ユカの顔をした別人だ。私は絶句せざるを得ない。まさか本当にドッペルゲンガーなんてものが存在したその事実に。ただ愕然とするしかなかったのだ。

「でも貴方はひとつ勘違いしてるよね」
「え?」

 答えてしまってからしまったと思った。目の前にいるのが本当にドッペルンゲンガーだとしたらどんな些細なことにも反応を返しちゃいけなかった。後悔してももう遅い。私は――

「だってほら……」
「ひっ――いや――」

 ユカが化粧を落とす。私は顔を引きつる。だってのその顔――

「――私は貴方だから」
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」








 そこでぷつんと意識が途切れた。気づいたら私は学校にいた。
 学校、いつもの日常風景。目の前の席にはユカがいて、今日もおいしそうにチュッパチャップスをくわえている。
 私はいつものようにただぼーっと一日を過ごす。あれが夢だったなんて思えない。
 今の自分が本当に自分かどうかさえもわからない。もう何が何だかわからないけれど。
 
 この世に私は一人しかいない。

 それだけはどうしようもなく理解していた。ドッペルンゲンガー。もう一人の自分。そんなのが本当にいるとしたらそれはひょっとして貴方の――



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恥丘の歩き方
 恥丘。

 この恥丘には我々のような存在以外、何も存在しないのは周知の事実だが、ふと疑問に思うことがある。
 どうして我々のような存在が何の疑問も抱くことなくこの恥丘に住み着いているのか。
 そんな当たり前のことを当たり前だとは認識できない私ことシュール・ストレミングはこの恥丘ではいささかイレギュラーな存在だった。

「おい、シュール。シュール聞いているのか? シュール!」
「ん? あぁ、聞こえている。問題ない。今日も素晴らしいハヤシ具合だ」
「ふん、心にもないことをさもそれらしく言いおって……」

 私の祖父さん。血は繋がってはいない。
 けれど、私が小さい頃からずっとそばにいてくれた人だ。
 そんな親も同然な祖父さんの長話に付き合うのがここ最近の私の日課だった。

「それより祖父さん聞いてほしいことがあるんだが……」
「なんだまた起源の話か。それならとっくに答えはでているだろうに」
「いや、その話はもういいんだ。他のヤツにも聞いてみたが、皆一様に同じ答えを口にするばかりで、私の考え方の方が異常だと気付かされた」

 そこまで言うと祖父さんはなぜか悲しそうな顔をして、押し黙ってしまった。
 私としてはそんなつもりは毛頭なかったのだが、私の語り口はどうやら人を不快にさせるようだ。

「シュールよ。お前はとても賢い。賢いからこそきっと私達には到底思い浮かびもしないことを考えてしまうんだろう。昔からお前はどこか異質だった。まるで私達の知らない世界が見えているようなそんな目をしていた」
「……」

 白く痩せ細った体を左右に揺らしながら祖父さんは答える。
 たしかに私は祖父さんが言うように、ここではない別の世界を見ているのかもしれない。
 この広い肌色の大地には、我々のような存在がそこらかしこに住み着いている。
 生まれたときからそんな光景を当たり前のように見てきたが、自分と他のヤツらとの決定的な違いを思い知ったのはつい最近のことだった。

 私は――

『ねぇ、どうしてシュールは自由自在に動くことができるの?』
『え? 君は自由に動けないのか?』
『動けないというか、そもそも動こうとすら思ないわ』
『それこそどうして? こんなに広い大地があるのに、どうして君は動こうとしないんだ?』
『シュール、そんなことを言ってはいけないわ。少なくとも私以外にはそんなことを言わないであげて』
『分からない。私は自分の欲求を素直に口にしたまでだ。それにこんな寂れた場所で君一人だけがずっと暮らし続けているなんて考えられないことだ。私なら寂しくなってすぐにこんな場所――』
『シュール、自分の価値観を誰かに押しつけるのは褒められたことではないわ。私は貴方がどんな風に生まれてどんな風に育ってきたかは知らない。けれど、貴方はおそらく私達とは違う生き方をしてきたのでしょう。そんな貴方をたしかに私は羨ましいと思う。だけど、この恥丘ではこれが当たり前なの。自らの存在がここにあるというだけで私達は満足できる。それはとても幸せなことじゃないかしら』
『…………』

――何者だ。

「……ル……い……おい、シュール!」
「はっ! すまない祖父さん。少し考え事を……うっ」

 頭の中を何かが這いずり回る悪寒に、私はその場で立ちくらみした。
 祖父さんが心配そうにこちらを見つめている。私は一体何者なんだ?

「シュール。お前はまたくだらないことを考えているんだろう」
「くだらない? 自分が一体どんな存在なのかを考えることがくだらないというのか、祖父さんは!」

 いつになくイライラした感情を胸に覚えた。
 普段はあまり感情を表に出さない私だが、この時ばかりは腹を立てずにはいられなかった。

「私には分からない。ここに住むもの達は皆どうして自由を求めない。この広い大地にただ縛り付けられているだけでなぜ満足できる。祖父さん、教えてくれ。私は一体どこから来てどこへ行くべきなのか」
「………」
「………」

 長い沈黙が二人の間を包み込む。
 私が祖父さんをこうやって困らせるのは何も今に始まったことではない。
 時折こうして、意味もなく沸き上がる苛立ちに翻弄されながら私はその胸の内を吐露してきた。
 そして、それをいつもただ黙って聞いてくれる祖父さん。
 答えなんかでるはずないと分かっているのに、それでも私は何かを追い求めずにはいられない。
 少し頭を冷やそうと思い、祖父さんの前から離れようと背を向けたその時、祖父さんはそっと口を開いた。

「シュール。あの丘の向こうには一体何があるのか知っているか?」
「え?」

 祖父さんが指さしたのは、この恥丘ではもっともタブーとされている区域、通称“世界の終焉へ続く丘”
 なだらかにカーブを描くその丘の向こうにはただひたすら闇が広がるばかり。
 誰もその先に何があるのかなんて知らない。唯一確かめに行くことができる私でさえ、そこへは行ったことがなかった。

 いつかの彼女が言っていたことを思い出す。

『動けないというか、そもそも動こうとすら思わないわ』

 今、私は間違いなく彼女と同じことを考えている。
 私なら行こうと思えば、すぐにでも行ける。でも行こうとは思わない。
 それは一体どうして? 何かに縛られているのは本当は私の方なのか?
 また思考がループし始めたところで祖父さんが話しかけてきた。

「確かめてくるといい」
「え?」

 予想外の一言に私の思考は再び加速し始める。
 確かめる? 何を? タブーを犯してまで確かめる必要性があるのか?

「シュールよ。お前だけがどうして自由にその身を動かすことができるのかは私には到底見当もつかない。しかし、お前のその能力があればあの丘の向こう側などきっと簡単に見に行くことができるだろう。そこにお前が求める答えとやらがあるかもしれない」
「そ、それは……でも……あそこへ行くのは禁止されているのでは?」

 祖父さんに言われて初めて丘の向こう側へ行ってみたいと本能が囁いた。
 でも、理性がそれを許そうとしない。今まで“行こうと思わなかった”ところへ今更行こうなどと虫が良すぎる話ではないか。
 本能と理性のせめぎ合いが続く中、祖父さんを見やるとどこかうれしそうな顔で言ってきた。

「かっかっか! そうかそうか、お前はまだ律儀に私の言ったことを守っていたのか」
「それは一体どういう……」

 こんなに声を荒げて楽しそうに笑う祖父さんを見るのは久しぶりだ。
 さっきまでのもやもやした気分が晴れるようなそんな笑顔だった。

「いやなに、お前がまだ小さかった頃、あの丘の向こう側へ行ってみたいとお前自身が私に言ってきたことがあった。その時はまだ今みたいに自分で自分を抑制するなど考えもしない年頃だったお前を心配した私は、咄嗟に嘘をついたのだ」
「嘘?」
「そうだ。あの丘の向こうには大いなる闇が広がっていて、そこへ行くとお前はその闇に食われてしまうぞと。そう言ってお前を脅してやったら予想以上に効果があって、それ以来お前はあの丘の向こう側へ行くなどとは一度も口にしなくなった。だがしかし、本当は誰も知らないのだ。あそこに一体何があるのか。あの丘の向こう側は本当に世界の終わりへ続いているのか。そんなことを思っても、誰もあそこへは行こうとしない。いや、そもそも私達にとってはあそこに何があろうとなかろうと関係ないのだ。お前のようにこの大地を動き回るような生き方は私達にはない。それはお前も知っての通りだ。だから私がお前に嘘をついたのは、まだ幼かったお前を純粋に心配してのことだった。それがいつしかお前の中ではとても大きな足かせになっていたとは……もう少し早く気付いてやれば良かったな……シュールよ、お前は何にも縛られちゃいない。お前こそ唯一この恥丘で自由という言葉が似合う存在だ」
「祖父さん……」

 祖父さんのその言葉で胸につかえていた何かがふっきれたような気がした。
 私は自らの足でその目であの丘の向こう側へ行ってみることにした。
 祖父さんに見送られて私はなだからなカーブを描く丘の上を歩いていた。
 もう少しでこの丘の頂上につく。果たしてそこから見えるものは何なのだろうか?
 期待に胸を膨らませながら、丘を上りきると、そこには―ー

「何もない」

 薄々気付いてはいたが、この恥丘はあまり広くない。
 一見すると広大に思えるこの恥丘だが、他の者と違い自由に動き回れる私にとってはむしろ狭いぐらいだった。
 それを口にするのは祖父さんの前でさえもさすがに躊躇われた。
 なぜなら、祖父さん達は自分から動こうとしないのでこの大地の広さを無限であるかのように錯覚しているからだ。
 例の彼女に出会うまでの私ならきっとつい口を滑らせてしまって祖父さんを今以上に困らせていたと思う。

『シュール、自分の価値観を誰かに押しつけるのは褒められたことではないわ』

 自分の価値観と自分以外のものの価値観は違う。
 外見だけは同じ存在であっても私と祖父さん達とは決定的な違いが存在する。
 それを考えずに私が思ったことをありのまま伝えてしまったならば、それはどんなに自分勝手で傲慢な行為なのだろう。
 結果的に私は彼女を傷つけることで、他の誰かを傷つけないことを学んだ。
 皮肉なものだ。こうして祖父さんに言われてやってきた丘だが、さすがにここからの光景を祖父さんにそのまま伝えるのは些か不憫に思えた。
 さて、どうしたものかと思案を巡らせていると、何もないと思っていた空間にかすかに光る何かが見えた。

「……あれは」

 と思った矢先、今まで綺麗に澄み渡っていた天に突然暗雲が立ちこめ、見たこともない白い何かが降ってきた。
 それはいくつかの大きな塊となって大地に降り注ぎ、みるみるうちに肌色の大地を白く染め上げていく。
 一見するとどこか幻想的な風景にも思えたが、私の胸の中はなぜか嫌な予感でいっぱいだった。
 先ほど丘の向こう側にチラリと見えた光も気になるが、今は何よりこの異常事態のほうが問題だった。
 丘を上がってきた道を振り返ると、あの白い塊がさっきよりも明らかに増量されて大地に降り積もっていた。

「あの辺は、祖父さんがいる場所だ……!」

 訳もなく沸き上がる不安を必死で押さえ込みながら、私は祖父さんの元へと走った。
 走ってる間にも天から降り続ける白い塊。それは大地に降り注ぎ、行く手を阻む。
 ここで迂回している時間はないと焦った私は勢いよくその白い塊に突っ込んだ。

「むおっ」

 予想していたのとは違う衝撃につい変な声を出してしまった。
 何かの塊というよりは泡状の個体と言った方がしっくりくるだろうか。
 視界が一気に悪くなり、もはや前に何があるのかすらわからない。それに体中を嫌な感触が包み込む。まるで何か得体の知れない生き物の中に入り込んでしまったようなそんな感覚だ。
 それでも私は祖父さんの安否が気になるのでかまわず前進を続けた。このまま方向さえ見失わなければ祖父さんの元へ帰れるはずだ。
 そう信じて、進み続けること数分。視界はますます悪くなってきて、もはや自分がどこにいるのかさえつかめなくなってしまった。

「しまった。このまま闇雲に進んでもますます迷うだけだ。何か……何かうまくここを脱出する方法はないのか……」

 気持ちはますます焦り、胸にうずまく嫌な予感はだんだんと大きくなっていった。

「ぎゃあああああああああ、裁きのイカズチだぁああああ!」
「天は我らを見放した」
「嫌だ、死にたくない。死にたくないよぉおおおおおおお!」
「っ!?」

 突然、自分の周りから聞こえる悲鳴に驚き、声のする方に向って走った。
 するとそこには――

「カミガミの子は天なる裁きによって、その身を天へと返す。荒れ狂うイカズチが突如としてこの大地に降り注ぎ、すべてを無に帰す。そして再び再生の時を迎えるだろう。新たなる繁栄は破壊によってのみもたらされる」
「くそ、ちくしょおおお。俺はこのあいだ結婚したばかりなんだぞ。なんで、なんでこんなことっ――」
「きゃあああああああああああ、あなたぁああああああああああ!」

 とてもこの世のものとは思えない阿鼻叫喚図が広がっていた。
 目の前で次々と消えていく命の灯火をただ黙って見ていることしかできない。

 助ける? でも一体どうやって?

 自由に動けるのは自分だけ。
 ここにいるものは皆ただひたすら死を待っている。
 それがここでは常識、当たり前、日常茶飯事。
 けれど、今目の前で行われているコレはあまりにも理不尽で、一体どんな理由があって彼らは殺されているのだろう。
 そして私はどうしてこんなところにただぼーっと突っ立っているのか。
 誰か教えてほしい。今私がすべきことが何なのかを。

「お、お前は確か、シュール。そうだ自由自在のシュールじゃないか」
「っ!」

 目の前の見知らぬ誰かに突然自分の名前を呼ばれて正気に戻る。

「お前は俺達と違って自由に動けるんだろ? つまりそれは今この状況においては誰よりも優位ということじゃないか。ならお前にやってほしいことがある。アレを……あのカミの裁きってやつをとめてくれ! 頼む、俺達じゃどうすることもできない。お前しか頼りがないんだ。この世界を救えるのはお前だけだシュール。だからどうかあのイカズチをっ―ー」

 ズシャッという聞き覚えのない音。
 今目の前にいた見知らぬ誰かが一瞬にして消滅した。
 いや、視界では確かにそう認識できるが、当然頭はついてこない。
 これは一体何の冗談だ? カミの裁き? 私が止める?

「ははは……」

 極限状態にまで追い詰められた精神は笑うという行為でなんとか安定を保とうとする。
 しかし、そんなのはその場しのぎにしかならない。あっという間に崩れるのは自明の理だった。

「シュール。シュールがいる!」
「おい、お前、アイツをとめてくれ!
「そうよ、私達じゃどうにもできないわ」
「お前、動けるんだろ! ならその能力をこの一大事に使わなくてどうすんだよ!」
「そうよ、はやくなんとかしなさいよ。でないとわたっ――」
「きゃああああああああああああああ!」
「うわぁあああああああああああああ!」

 次々と失われていく命。
 私はもはや何が何だかわからなくなって、その場から逃げ出した。
 逃げ続けている間も背後から悲痛な叫び声が聞こえ続ける。
 途中誰かに出会うたびに助けを求められるが、ただ動くことができるだけの私に一体何ができるというのか。
 助けたいという思いと自分には何もできないという矛盾した思いがせめぎ合ってるうちに助けを求めてきた相手がその身ごと無くなってしまっている。
 読んで字のごとく、無だ。
 普段散歩していた道も。数少ない気の合う仲間と談合していた広場も。あの人がいるお気に入りの場所へ続く通り道でさえも、みな同じように何もないただの肌色の大地へと変わってしまっていた。
 散歩していたときにいつも挨拶していたあの仲の良い夫婦達も、自由に動ける私を仲間はずれにさせないように必死で周りに働きかけてくれていたあの仲間達の面影すらも、もうどこにも残っていない。
 そして、今の私にとってとても大切な何かを教えてくれたあの人。
 そうだ、あの彼女は無事だろうか。
 私は無尽蔵に溢れてくる涙を拭いながらも彼女のいるお気に入りの場所を目指した。

 しかしそこには――

「あら、シュール。こんにちは。どうしたのそんな情けない顔して。また誰かに嫌みを言われたのかしら?」
「っ――」

 ――体の半分をごっそり失っているというのに今までと変わりない笑顔で微笑みかけてくれる彼女の姿があった。

「そ、その体……」
「あぁ、さっきあのイカズチが私のところにも落ちてきて、この身を半分持っていったの」
「持っていったって……そんな……あれはそんな生やさしいものじゃ……!」

 ここに来るまでに見てきたもの達の対応とは明らかに違うその有様をみて、私はかける言葉を失った。
 自己の保身を優先するばかりに、私に難癖をつけて罵声を浴びせてくるものも確かにいた。
 純粋に助けを求められて、それでもなんとかしたいと思った私の目の前で消えていくもの達の声も聞いた。
 でもそのどちらもが自分の命をなんとかしてこの大地に繋ぎ止めたいという悲痛な思いを叫んでいたのは間違いなかった。
 自分がもし彼らと同じ立場なら同じ事を思ったに違いない。
 けれど、彼女は違う。彼女の目は死を目前にしてなおその美しい輝きを失ってはいなかった。
 むしろこれは当然のこと……いやあるいは必然の出来事であるとさえ割り切っているように見える。
 彼女はどうしてそこまで――

「シュール。貴方が考えていることが私には手に取るようにわかるわ。けれど前にも言ったように、私には私の価値観。貴方には貴方の価値観が存在する。一体どちらが正解なんてのはこの世の中には存在しない。そう思ったからそうする。そう思わなかったからそうしない。そうやって世界は個を中心にしつつも、全体としてはさほどズレが生じないようにゆるやかに形成されていくのよ」
「…………」

 彼女の優しい声がいつものようにすうっと胸の中に落ちていく。
 けれど、今のこの状況では彼女の言葉の意味を一つ一つゆっくりと解読することはできない。
 一体彼女は何を言っているんだろう? 私に何を教えてようとしているのか。
 この期に及んでさえ、彼女は無知な私に必死で何かを伝えようとしている。ただそれだけは分かる。
 だから私は彼女の発する言葉を一字一句聞き逃さないようにと耳を傾けた。

「シュール。落ち着いて聞いて。今貴方がすべきことはたった一つだけ」
「私がすべきことはたったひとつ……」
「そう、難しいことは何も考えないで。貴方はただここからいつものようにお祖父さんの元へ帰るの」
「帰る? それだけ?」
「そうよ、それが今貴方がすべきたった一つの事よ」
「…………」

 混濁していた頭の中から余計なものを追い出してゆく。
 彼女の言葉により、自分が今すべきことが何なのかはっきりと意識することができた。
 でもそれは――

「できない。それじゃ君は一体どうなるんだ? 私がここからいなくなってしまえば君は――!」
「シュールよく聞いて。私はもう貴方に救われているわ。貴方がここに来てくれたおかげで私の生き方や考え方は一変した。それはもう今までがほんと嘘のように光り輝く日々を貴方は私に与えてくれた。それだけで十分すぎるほどよ」

 私が彼女を救っている?
 そんなはずはない。
 だって私はいつだって彼女を傷つけるようなことばかりしてきた。
 それなのに、なんで彼女はこんなにも眩しい笑顔で私に接することができるのか。

「私には分らない。自分で自分が分らない。それなのにみんな私に救いを求めるような目をむけてくる。そして君はそんな私に救われたと言う。私自身は何もしていない。いや私にはそもそも何も出来ない。私はもう動きたくない。こんな訳の分らない気持ちを抱えるぐらいならいっそ君たちみたいにこの場にずっと留まりたい……うぅ……」

 たまらず涙を流してしまう。
 いろんなものが一度に押し寄せてきて、もう何が何やらわからないぐらい頭はぐちゃぐちゃだ。
 けれど、そんな情けない状態の私を見ても、彼女は蔑むどころか、むしろ当然のことのようにこう言った。

「もっと近くにきて、シュール。私が貴方のその不安ごと抱きしめてあげるから」
「……ぐずり」

 鼻水をすすりながらも私は彼女に言われたとおり、そばにまでやってきた。
 近くで見れば見るほど彼女の体の異常さがはっきりと認識できる。
 体の半分をごっそり失い、この場に立っているのがやっとの状態に見えるのに彼女は笑顔を絶やさない。

「貴方のその考えて考えて深みにはまる性格はとてもかわいいと思うわ。不謹慎だけれど、私はそうやって悩んでるときの貴方がとても大好きなの。だって一生懸命なんですもの。私達が考えもしないことで悩み、思いも寄らない結論を導き出す。私にとって貴方は風船のようなもの。外から見ている分にはとっても可愛いけれど。きっとその中には私には分からない、いろいろなものが渦巻いているのね。そして、それに耐えきれなくなった風船はいつか破裂して消え去ってしまう。貴方にはそんなことにはなってほしくない。だから今は気が済むまで泣いて……私のこんな体で貴方を癒せるとは思えないけれど……まだ、今の貴方を支えるぐらいの力は私には残ってるわ」

 彼女のなすがまま、言われるがままにこの身を預ける。
 これじゃあまるで真逆だ。本当なら私が彼女を支えてあげなければいけないはずなのに。
 でも今はもうこれ以上何も考えたくない。彼女の柔らかい体と優しい温もりが私の心を落ち着かせる。
 あーそうか、私はこうやって誰かの胸に抱かれたかったのかもしれない。
 周囲と違う自分を自覚してからは誰かに甘えるという行為をしなくなった。
 けれど、ほんとは甘えたかったのだ。誰かにこうして抱かれるように甘えたかった。これが私の本当の気持ち。

「――さん」
「よしよし。良い子良い子」

 いつまでそうしていただろうか。気づいたら周りはとても静かになっていた。
 彼女に抱かれることで私の心は再び安定を取り戻すことができた。
 けれど、現状はおそらく何も変っていない。いやむしろ悪化しているかもしれない。
 それでも私は……

「そろそろ行くよ」
「そう、良かったわ。こんな私でも貴方の役に立てて」
「そんな、私はいつも君に……いや、そうじゃないな。うんありがとう。君のおかげで私はとても大切な何かを手に入れた気がする」
「ふふ、貴方がそんな風に笑った顔、初めて見るかも」
「え? そうかな、私はいつも笑っていたつもりだったけど」

 どちらからともなく、くすくすと笑い出す。
 こんな絶望的な状況で笑い合うのはおかしなことかもしれない。
 けれど今の私達の笑うという行為はこれから前に進むための大事な儀式でもあった。

「じゃあ、行ってくるよ」
「うん、お祖父さんによろしくね」
「あぁ……その……」

 これがもしかしたら彼女との最後の別れになるかもしれない。
 私はなんと言って別れたらいいのか悩んだ末にこう言った。

「また来るよ」
「うん、待ってる。貴方にまた会えることを楽しみにしてるわシュール」

 そして、私は二度と振り返ることなく彼女の前から立ち去った。
 もう迷わない。迷ってはいけない。
 私はだんだん足を速めると、祖父さんがいる場所に向かって全速力で走った。
 この大地の上で唯一自由に動き回れる存在。
 誰よりも速く、誰よりも広く世界を見渡せるそんな自分。
 けれど本当は何も知らなかった。ここにいる誰よりも私は無知であった。
 それを自覚した今、私は知らなければならない。
 私がここにいる意味、そしてこの世界の仕組みを。

「はぁはぁ……祖父さん……」
「遅かったなシュール」

 いつものように祖父さんは、帰宅時間が遅くなった孫を心配するような優しい口調で言った。
 その顔には微塵の焦りもなく、目の前に広がる残酷な光景にさえ微動だにしない。
 それがかえってより祖父さんがすべてを知る存在だということを強調していた。

「教えてくれ祖父さん。なぜ私はここにいる。あんたは一体私に何をさせようとしている」
「シュールよ。この光景を目に焼き付けておくがいい。これが世界の終わりの光景だ」
「………………」

 私は祖父さんに言われるがままに辺りを見渡した。
 何もない。見渡す限り肌色の大地しか見えない。
 つい数時間ほど前までは黒々としたハヤシが鬱そうと生い茂っていたのに。

「祖母さん、いや私の妻もこうして数年前に私の前から消えていった……」

 そう言うと祖父さんは何かを決意したかのように、私の目を見つめてきた。
 その圧倒的な眼力に気圧されまいと、私も精一杯の力を瞳に込めてにらみ返す。
 すると、祖父さんは何がおかしかったのか、クスリと小さく微笑むととんでもないことを口走った。

「お前がその祖母さんの生まれ変わりだ」
「――え?」
 
 意味が分らない。いや言葉の意味は理解できる。そうじゃない。
 祖父さんは何寝ぼけたことを言っているんだ? 私が祖母さんの生まれ変わり?
 そんな馬鹿なことあるわけ……。

「無理もない。こんな話を信用しろと言うほうがおかしいだろう。だが、お前にはいずれ話さなければならないと思っていた」

 祖父さんの目は真剣だ。少なくともそれが嘘をついてる目ではないことだけは分かる。
 だから私は今すぐにでも叫び出したい衝動を抑えて努めて冷静に問い返した。

「私が、祖母さんの生まれ変わり? それは一体どういうことなんだ祖父さん」
「ふむ、今のお前になら話しても大丈夫だろう」

 そう言うと、祖父さんはゆっくりと話はじめた。

「あの時も、私と祖母さんはここで二人気の向くまま目の前に広がるハヤシを眺めて談笑していた。それが突然、先のように天に暗雲が立ちこめ、あの白い塊がこの地に降り注ぎ裁きのイカズチが下った。そのあとはお前も知っての通り、瞬く間にハヤシはその存在ごと狩り取られていった。この大地の至るところから聞いたこともないような悲鳴がたくさん溢れた。でも私が本当にショックを受けたのはそんなことじゃない。すぐ隣にいる祖母さんが私の目の前から一瞬にして消え去った――それが私にとっての最悪だった」

 心の底から悲痛を叫ぶような祖父さんの表情に私の胸はひどく締め付けられた。
 私が何も言えずに戸惑っているのを知ってか知らずか祖父さんは淡々と話し続ける。

「なぜ祖母さんだけが狩られて私だけが生き残ったのか。私は何度も天に懇願した。祖母さんをやったなら私もやれと。どうして私だけを生かしておくのか。そのあまりの理不尽さに耐えきれず私は幾度も天に向かって叫んだ。けれども天は何も答えない。分かってはいた……アレにはこちらの声は届かない……。アレはただ自分が狩りたいときに狩りをし、したくないときはしない。ただそれだけの存在あるいは現象だ。私達はこの大地に縛り付けられているだけ。逃げるなんて発想がそもそもない。それを理解してしまったとき私は考えることをやめた。そして、祖母さんが消えて何年か過ぎ去り、ハヤシは持ち前の生命力の強さで以前のように力強く命を吹き返していた。いつの間にそんな時間が経過したのか私にはどうでもいいことだったが、そこで無視できないとんでもない事が起こったのだ」
「とんでもない事?」
「そう、シュール。お前が私の前にやってきたのだ」
「!」

 私に両親がいないのは祖父さんに聞かされて知ってはいたが、こうやって改めて祖父さんの口から自分の出生の秘密を聞かされると正直どう反応していいか困った……。

「お前の前でこんなことを言うのもあれだが、最初は不気味だったよ。突然目の前に現れた黒い塊は私の周りをずっとふよふよと飛び続けていたのだから」

 それは確かに不気味だ。まさか自分がそんな変なものから成長した存在だったなんて。開いた口が塞がらない私を無視して祖父さんはさらに続ける。

「しばらくすると、その黒い塊は祖母さんのいた場所にゆっくりと降りてきた。完全に祖母さんがいた場所に根付いたかと思うと、それは急に成長をし始めたのだこうニョキニョキと……」
「……」

 いや祖父さんがそんな冗談を言うはずはない……言うはずはないのだが……。

「なんだ、その目は。もしかして私を疑っているのか? まぁ確かに私も当時は信じられなかったが、今思い返してみれば、あれは祖母さんの加護だったのかもしれないと思うようになった。シュール。今更お前に祖母さんの代わりになってくれとは言わない。ただ知っておいてほしい。今のお前は私にとって祖母さんと同じくらい大切な存在であると。お前が何者であろうと、それだけは決して変ることはない。これまでも、そしてこれからもな」
「……祖父さん」

 祖父さんの優しさがなんだか照れくさい。祖父さんが言ったことが事実だとすれば、私は矢張りここにいるみんなとは違う存在だということになる。
 けれど、祖父さんはそれでも私を大切な存在だと言ってくれた。それにあの彼女も。
 ようやく分かった気がする。私がここにいる意味。そして、私がこれからすべきことも。

「祖父さん一つ教えてくれ。あのハヤシはまた元に戻るというのは本当なのか?」
「あぁ、ただしそれは何もかも元通りという意味ではない。あのイカズチによって一度狩られてしまったものはもう二度と蘇ることはない。それは当然のことだ。我々は永遠ではない。必ずどこかに始まりがあり、そして終わりがやってくる。つまり、私達が消えてもまた次の世代が生まれてくる。たったそれだけのことだ。お前が心配してるほど、この大地は絶望ばかりではない。お前がどんなもの達に出会ってきたのかは私には分からないが、その中には現状を受け入れ、明日に希望を見いだしているものもいただろう」
「……いたよ、祖父さんと同じように絶望の淵に立たされてなお、光を見失っていなかったものが……たしかに」
「そうか……」

 祖父さんはそう頷くと、それ以上のことは詮索してこなかった。
 私は一瞬、例の彼女のことを包み隠さず祖父さんに伝えようとも思ったが、彼女のことを知ったところで、祖父さんは彼女に会いに行くことができない。それを考えると、黙っている方がいいのかもしれないと思い伝えなかった。
 逆に彼女には祖父さんのことを何度も話してしまっていたが、彼女は動けなくてもこの世界のことをより多く知りたがっていた。
 だからどちらが正解なんてのはないのだろう。彼女が言ったように。

「さて、これからどうするシュールよ」
「どうするも何も、まずは今この現状をなんとか……」

 ……しようにもあのイカズチを止める方法は分からない。ならば、唯一この大地で自由に動けるこの能力を生かして、祖父さんのようにまだ狩られていないもの達を助け――

「まさかとは思うが、お前一人でまだ生き残っているもの達を助けに行くなどとは言わないだろうな」
「なっ!」

 どうして祖父さんまで私の考えていることが読めるんだ? あの彼女もそうだった。
 まさか私は知らず知らずのうちに自分の考えを口にしてしまっているのだろうか。

「何を勘違いしてるのか知らんが、お前は考えていることが顔に出やすいのだ。それにお前の性格から考えればきっとそう言うだろうと推測したまで。決してお前の心を読み取ったとかそんな変な能力は私にはない」
「……」

 それでも私には十分すぎるほどの驚きだ。自分がそんな分かりやすい顔をしていたなんて。
 でもだからって私の考えまで否定される謂われはない。

「どうして助けに行っては駄目なのか。祖父さんは心配じゃないのか? 同じ大地に住むもの達が今もどこかで祖母さんと同じような目に遭っているんだ。それでも祖父さんは助けに行くなというのか」
「駄目とは言っておらん。ただ本当にそんなことをして喜ぶものがいるかどうかは甚だ疑問だ」
「それでも私はっ!」
「落ち着けシュール。お前がやろうとしていることは確かに立派な事だ。だが、動くことの出来るお前と動くことの出来ない私達ではどうあっても相容れない価値観というものが存在する。そんなお前が私以外の……いやお前の能力を受け入れてるもの以外のヤツらを助けに行ってみろ。感謝はおろか、むしろ唯一動けるお前を非難して、荒れ果てた大地がますます荒れゆくことになるぞ」
「そ、そんなのやってみないと分からない!」
「では言い方を変えよう、お前がもし動けないものの立場で、すべてが終わったあとに動けるものが助けに来たと言ってお前の前に現れたとしよう。お前の周りの家族や友人はみんないなくなってしまった状況を想像するとよりよく分かるだろう。さぁ、お前ならどうする? 動けるものを一体どんな風に出迎える? 素直に差し伸べられた手を受け入れるか?」

 無理だ。親しいもの達はみんな息絶えて、唯一生き残った自分の元に動けるものが今更やってきたとしても、そんなの受け入れられるわけがない。
 だってそいつは唯一この大地を自由に動き回れるのだ。みんなが等しく狩られている間、自分だけは自由に逃げることができた。
 そんなやつがのこのこと逃げなかったもの達の前に現れてみろ。それは冒涜以外のなにものでもないではないか。
 私はすべてを失った彼らの尊厳までも奪おうとしていたのか。

「くっ……くそ……どうして私は……」

 こう何度も何度も同じような過ちを繰り返そうとするのだ。彼女に言われたことをまるで分かっていないじゃないか。
 こうしてまた祖父さんに止められなければ、私はきっと――。

「結局お前一人ではどうにもならないってことだ」

 そんなことは分かっている。分かっているが、じゃあ私は――

「じゃあ私は何をすれば!」
「何もしなくていい」
「え?」

 思わず出てしまった心の叫びに祖父さんはあっさりと答えを返した。
 まるで私が悩んでいたのがバカみたいだ。自分からこれからどうすると聞いてきたのに、何もしなくていいとは。
 祖父さんの考えていることが私にはまるで分からない。

「私の本音だよ。お前にはもうこれ以上何もしてほしくない。お前が動くことで他のものが傷つくかもしれない。でも本当はそんなことはどうだっていい。私が心配なのは、お前自身が傷つくこと。お前は優しいから、きっと他のものに責められても耐え続けるだろう。それでもお前はお前に出来る精一杯のことをしようとするだろう。私にはそれが耐えられんのだ。お前の悲しむ姿をこれ以上見るのは忍びない。ならばもう、動く必要はない。お前はずっと私とここで暮らしてくれればそれでいいと思ってる。お前の価値観からすれば間違ったことを言ってるかもしれない。それでも私が一番大事なのはシュール……お前ただ一人だけなのだ」

 祖父さんが泣いたところを初めて見た。溢れる涙を拭おうともせずに私に語りかけるその眼差しは何物にも代え難い輝きを持っていた。
 私は考え違いをしていたのかもしれない。所詮私一人ではこの大地は救えない。そんなのは傲慢だ。それならもういっそすべてを受け入れ、皆と同じようにこの大地に根付くのがいいのかもしれない。
 少なくとも祖父さんにとってはそうすることが一番幸せなことなんじゃないだろうか。
 次にあのイカズチが落ちるまではずっと一緒だ。もしまた片方だけがやられたとしても、祖父さんが言うように、次の世代が生まれるのを待てばいい。そして伝えていけばいい、この大地で起こった様々な出来事を。
 それがありのままを受け入れるということ――。

 私は大きくひとつ深呼吸をすると言った。

「ありがとう、祖父さん」
「分かってれたかシュール」
「あぁすごくよく分かった。……でも祖父さん、私は行こうと思う。この大地を救う道を私はこの足で歩こうと思う」
「……シュール」

 また祖父さんを悲しませてしまったか。でも私には分かってしまったのだ。祖父さんが言うように何もしないのが一番だと思う。でも私は祖父さんではない。私には私にしか出来ない何かがきっとあるはずなんだ。それを探し出すまではここで立ち止まるわけにはいかない。

「そうか、矢張りな。お前のその頑固なところは死ぬまで変らんか。かっかっか! あっぱれ!」
「祖父さん?」

 さっきまでの暗い顔はどこ吹く風。祖父さんの表情は打って変わって五月晴れだった。

「ならばもう私から言うことは何もない。思う存分探すが良い。お前自身が信じる救いの道とやらを。やれやれこんなことならあんな泣き真似演技なんてしなくても良かったかもな」
「な、祖父さんあんたまさか私をため――」
「私は今も昔も嘘つきだ。それを見抜けなかったお前はまだまだ未熟ということだ」
「ぐぬぬぬ」

 それでも私には分かる、祖父さんは意味のない嘘はつかない。
 祖父さんが嘘をつくのは今も昔も私のためだったということを。

「とりあえず、あの丘の向こうを目指してみようと思う」
「ほほう。矢張りあそこには何かあったのか?」
「いや何もなかった。ただ気になることはあった。あの向こうは完全な闇じゃない。私はかすかに光る何かを見たんだ」

 そうずっと気になっていた。あのイカズチが落ちる前、闇の向こうに光る何かを見たことが。私にはアレを確認する義務がある。いや、もうそんな堅苦しいのはよそう。私は見たいのだ。あの闇の向こうに広がる世界を。

「じゃあ行ってくる」
「うむ、気をつけてな」

 お互いにそっけない挨拶だが、これでいい。
 これっきりもう会えなくなるわけじゃない。祖父さんはずっとここにいる。そして私はこの自由に動ける足でまたここに戻ってくればいい。そう私にはちゃんと帰る場所が――
 と、突然大地が激しく揺れ動く。

「じ、地震!?」
「むぅ……矢張り来たか……」
「祖父さん、コレは一体!」

 私が慌てて祖父さんに駆け寄ろうとすると、祖父さんは険しい表情でこちらをにらみ返した。

「お前は行け! 何も考えずあの丘の向こうを目指せ!」
「しかし、それだと祖父さんは!」
「馬鹿もんが! たかだか、大地が揺れたぐらいで大騒ぎしおって。こんなのは前の時もあったことだ。私の経験上この揺れはあとしばらく続く。しかし、数十分もすれば揺れは収まり、再び大地は平穏を取り戻す。私達には何の影響もない。その程度のものだ。だから私達のことは心配しなくていい。むしろ逆に急いだ方がいいかもしれん」
「どうして!」

 揺れがだんだん大きくなり、立っているのもやっとの状態だった。

「この大地の揺れと、お前の言う救いの道とやらは関係しているような気がする。確信はないが、おそらくこの揺れはあの丘の向こうから来ている。なぜか私にはそう思えるのだ。だが私はそれを確認する術を持たない。それがシュール。お前になら出来るのだ。この揺れが収まると次はいつ来るのかわからん。なんせイカズチのあとに起こる現象だからな。だからチャンスは今だけだ。私のことは心配しなくていい。全力で走れシュール! お前の信じる道を突っ走るんだ!」
「わ、分かった!」

 祖父さんがそう言うならきっとあそこに何かあるんだろう。
 後ろ髪を引かれる思いだったが、私は何とか自分を納得させて丘に向かって歩き出した。
 まだ揺れが大きくて走ることはできないが、祖父さんが言っていることがほんとだとしたらこの揺れが収まる前にあの丘のてっぺんにはいたほうがいいだろう。
 もう迷ってる暇はないんだ。
 最後にもう一度だけ祖父さんの方を振り返る。

「祖父さん、また絶対帰ってくるから。それまでどうか元気で! そして今まで本当にありがとう。私はあんたに育てられてほんとによかったと思ってる。私の一番も祖父さん……あんただけだ!」
「はっ! 今更気づいても遅いわ! しっかり見つけてこい。お前の信じる夢ってやつを。そしていつかきっと――」

 それ以上は何を言っているのか聴き取れなかった。
 でも私には分かる、祖父さんが一体どれほどの寂しさを押し殺して私の背中を押してくれたか。
 それを無駄にするわけにはいかない。私はここで何かをつかみ取らなければならない。
 祖父さんのために……自分のために……そしてあの彼女のためにも。

 丘のてっぺんに来る頃には揺れもだいぶ収まっていた。辺りを見渡すが矢張り何もない。
 と、よくみると闇の向こうに何か道のようなものが浮かんでは消えてゆく。
 丘の端――陸地がなくなっているギリギリのところまで行ってみると、信じられないものがそこにあった。

「な、なんだこの赤黒く変色した丸い物体は……」

 と、突然その赤黒い物体が丘に向かって突進してきた。

「うわああああああああ!」

 慌てて後ろに下がるが、バランスを崩してその場に大きく尻餅をついてしまった。
 ヤバイと頭を咄嗟にガードしたが、しばらくしても何も襲ってはこなかった。
 恐る恐る目を開けてみると……

「消えた? いや違う。これは……」

 なんということだろう、あの赤黒い物体は今私が立っているこの丘にぶつかって一体化してしまっている。
 まったく訳の分らない状況に困惑していると、先ほどと同じような地震が再び起こった。

「くっ、そうか。あれが地震の正体か」

 あの赤黒い物体がこの丘にぶつかることで振動が発生し、大地に揺れを生み出していたのだ。
 確かにこれだけでは祖父さんがいる辺りには揺れが伝わるだけで被害は特にないだろう。
 ほっと安心したのもつかの間、揺れに耐えながらよく丘の向こうを見つめると矢張り何かの道のようなものが見え隠れしている。

「もっと近づいてみないと」

 大地に這いつくばりながら私は道らしきものを探す。
 するとどうだろう。あの赤黒い物体は単体ではなく、その背後に太くて大きな茶褐色の道を一緒に引き連れているではないか。

「そうか、そういうことか」

 あれはこっちの大地とまだ見知らぬあちらの大地とをつなぐ通路に違いない。
 で、理由は分らないがあの通路が出現するのは裁きのイカズチが終わった直後。
 それを確認できるヤツはこちらの大地にはいなかった。
 唯一、私というイレギュラーを除いては。

「もしかしたら、私のような存在があちらの大地にいるのかもしれない。祖父さんは言っていた。私は最初黒い物体のようなものでふわふわと飛んでいたと」

 だとすれば、そんな意味不明な物体がやってくるとしたらここから以外にない。
 向こう側に渡ればきっとあのイカズチの謎も、私という存在の謎も解けるかもしれない。
 コレは行くしかない。なのに、どうしてこの足はこんな大事な時に――

「動かない。どうして、目の前に答えに続く道があるというのに。なぜ私は動けない!」

『私が一番大事なのはシュール……お前ただ一人だけなのだ』
『うん、待ってる。貴方にまた会えることを楽しみにしてるわシュール』

 そうだ。分かってる。私にはもう自分以上に大切な存在が二人もここにいるんだ。
 それでいいじゃないか。それ以上何を望むというのだ私は。
 私の足は自然と彼らがいる方向に向かって向きを変え始める。
 そうだ、帰ろう。たとえ向こう側に私が求める答えがあったとしても、もう一度こちらに戻ってこれる保証はどこにもない。
 あのイカズチは定期的に落ちるようだが、この通路まで同じように定期的に繋がるとは思えない。
 何かの偶然が重なって起きた現象なのかもしれない。私のことも。偶然が重なった結果、私はこちら側に流れ着いただけなのかもしれない。
 それならいっそそれを受け入れ、こちらで祖父さん達と一緒に過ごすのが正しい選択なのかもしれない。
 そう考えるともう、ここから先へ進むことは無駄なような気がしてきた。

『シュール。落ち着いて聞いて。今貴方がすべきことはたった一つだけ』
『全力で走れシュール! お前の信じる道を突っ走るんだ!』

「あぁ、まったくそのとおりだな」

 走った。

 何も考えずただひたすらに前に。
 
 そうすることが私の使命だと言わんばかりの勢いで、足を前に押し出す。

 息が乱れるのもかまわずただただ前に向かって走る。

 彼女は一人でも大丈夫だと言った。

 祖父さんは一人だと寂しいと思っていた。

 私は一人では何も出来ないと痛感した。

 だから走る。

 彼らの思いを胸に私は走り続けることを選ぶ。

 たとえそこに終わりがなくても。

 行けるところまで私は突き進もうと思う。



 なぜなら――



 私はシュール・ストレミング。

 この大地で唯一自由に動き回れる存在。

 私は今日、新たな大地への第一歩を踏み出した。




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テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

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