Blogまうまう
生きてるうちに言いたいことを言っておく
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恥丘の歩き方
 恥丘。

 この恥丘には我々のような存在以外、何も存在しないのは周知の事実だが、ふと疑問に思うことがある。
 どうして我々のような存在が何の疑問も抱くことなくこの恥丘に住み着いているのか。
 そんな当たり前のことを当たり前だとは認識できない私ことシュール・ストレミングはこの恥丘ではいささかイレギュラーな存在だった。

「おい、シュール。シュール聞いているのか? シュール!」
「ん? あぁ、聞こえている。問題ない。今日も素晴らしいハヤシ具合だ」
「ふん、心にもないことをさもそれらしく言いおって……」

 私の祖父さん。血は繋がってはいない。
 けれど、私が小さい頃からずっとそばにいてくれた人だ。
 そんな親も同然な祖父さんの長話に付き合うのがここ最近の私の日課だった。

「それより祖父さん聞いてほしいことがあるんだが……」
「なんだまた起源の話か。それならとっくに答えはでているだろうに」
「いや、その話はもういいんだ。他のヤツにも聞いてみたが、皆一様に同じ答えを口にするばかりで、私の考え方の方が異常だと気付かされた」

 そこまで言うと祖父さんはなぜか悲しそうな顔をして、押し黙ってしまった。
 私としてはそんなつもりは毛頭なかったのだが、私の語り口はどうやら人を不快にさせるようだ。

「シュールよ。お前はとても賢い。賢いからこそきっと私達には到底思い浮かびもしないことを考えてしまうんだろう。昔からお前はどこか異質だった。まるで私達の知らない世界が見えているようなそんな目をしていた」
「……」

 白く痩せ細った体を左右に揺らしながら祖父さんは答える。
 たしかに私は祖父さんが言うように、ここではない別の世界を見ているのかもしれない。
 この広い肌色の大地には、我々のような存在がそこらかしこに住み着いている。
 生まれたときからそんな光景を当たり前のように見てきたが、自分と他のヤツらとの決定的な違いを思い知ったのはつい最近のことだった。

 私は――

『ねぇ、どうしてシュールは自由自在に動くことができるの?』
『え? 君は自由に動けないのか?』
『動けないというか、そもそも動こうとすら思ないわ』
『それこそどうして? こんなに広い大地があるのに、どうして君は動こうとしないんだ?』
『シュール、そんなことを言ってはいけないわ。少なくとも私以外にはそんなことを言わないであげて』
『分からない。私は自分の欲求を素直に口にしたまでだ。それにこんな寂れた場所で君一人だけがずっと暮らし続けているなんて考えられないことだ。私なら寂しくなってすぐにこんな場所――』
『シュール、自分の価値観を誰かに押しつけるのは褒められたことではないわ。私は貴方がどんな風に生まれてどんな風に育ってきたかは知らない。けれど、貴方はおそらく私達とは違う生き方をしてきたのでしょう。そんな貴方をたしかに私は羨ましいと思う。だけど、この恥丘ではこれが当たり前なの。自らの存在がここにあるというだけで私達は満足できる。それはとても幸せなことじゃないかしら』
『…………』

――何者だ。

「……ル……い……おい、シュール!」
「はっ! すまない祖父さん。少し考え事を……うっ」

 頭の中を何かが這いずり回る悪寒に、私はその場で立ちくらみした。
 祖父さんが心配そうにこちらを見つめている。私は一体何者なんだ?

「シュール。お前はまたくだらないことを考えているんだろう」
「くだらない? 自分が一体どんな存在なのかを考えることがくだらないというのか、祖父さんは!」

 いつになくイライラした感情を胸に覚えた。
 普段はあまり感情を表に出さない私だが、この時ばかりは腹を立てずにはいられなかった。

「私には分からない。ここに住むもの達は皆どうして自由を求めない。この広い大地にただ縛り付けられているだけでなぜ満足できる。祖父さん、教えてくれ。私は一体どこから来てどこへ行くべきなのか」
「………」
「………」

 長い沈黙が二人の間を包み込む。
 私が祖父さんをこうやって困らせるのは何も今に始まったことではない。
 時折こうして、意味もなく沸き上がる苛立ちに翻弄されながら私はその胸の内を吐露してきた。
 そして、それをいつもただ黙って聞いてくれる祖父さん。
 答えなんかでるはずないと分かっているのに、それでも私は何かを追い求めずにはいられない。
 少し頭を冷やそうと思い、祖父さんの前から離れようと背を向けたその時、祖父さんはそっと口を開いた。

「シュール。あの丘の向こうには一体何があるのか知っているか?」
「え?」

 祖父さんが指さしたのは、この恥丘ではもっともタブーとされている区域、通称“世界の終焉へ続く丘”
 なだらかにカーブを描くその丘の向こうにはただひたすら闇が広がるばかり。
 誰もその先に何があるのかなんて知らない。唯一確かめに行くことができる私でさえ、そこへは行ったことがなかった。

 いつかの彼女が言っていたことを思い出す。

『動けないというか、そもそも動こうとすら思わないわ』

 今、私は間違いなく彼女と同じことを考えている。
 私なら行こうと思えば、すぐにでも行ける。でも行こうとは思わない。
 それは一体どうして? 何かに縛られているのは本当は私の方なのか?
 また思考がループし始めたところで祖父さんが話しかけてきた。

「確かめてくるといい」
「え?」

 予想外の一言に私の思考は再び加速し始める。
 確かめる? 何を? タブーを犯してまで確かめる必要性があるのか?

「シュールよ。お前だけがどうして自由にその身を動かすことができるのかは私には到底見当もつかない。しかし、お前のその能力があればあの丘の向こう側などきっと簡単に見に行くことができるだろう。そこにお前が求める答えとやらがあるかもしれない」
「そ、それは……でも……あそこへ行くのは禁止されているのでは?」

 祖父さんに言われて初めて丘の向こう側へ行ってみたいと本能が囁いた。
 でも、理性がそれを許そうとしない。今まで“行こうと思わなかった”ところへ今更行こうなどと虫が良すぎる話ではないか。
 本能と理性のせめぎ合いが続く中、祖父さんを見やるとどこかうれしそうな顔で言ってきた。

「かっかっか! そうかそうか、お前はまだ律儀に私の言ったことを守っていたのか」
「それは一体どういう……」

 こんなに声を荒げて楽しそうに笑う祖父さんを見るのは久しぶりだ。
 さっきまでのもやもやした気分が晴れるようなそんな笑顔だった。

「いやなに、お前がまだ小さかった頃、あの丘の向こう側へ行ってみたいとお前自身が私に言ってきたことがあった。その時はまだ今みたいに自分で自分を抑制するなど考えもしない年頃だったお前を心配した私は、咄嗟に嘘をついたのだ」
「嘘?」
「そうだ。あの丘の向こうには大いなる闇が広がっていて、そこへ行くとお前はその闇に食われてしまうぞと。そう言ってお前を脅してやったら予想以上に効果があって、それ以来お前はあの丘の向こう側へ行くなどとは一度も口にしなくなった。だがしかし、本当は誰も知らないのだ。あそこに一体何があるのか。あの丘の向こう側は本当に世界の終わりへ続いているのか。そんなことを思っても、誰もあそこへは行こうとしない。いや、そもそも私達にとってはあそこに何があろうとなかろうと関係ないのだ。お前のようにこの大地を動き回るような生き方は私達にはない。それはお前も知っての通りだ。だから私がお前に嘘をついたのは、まだ幼かったお前を純粋に心配してのことだった。それがいつしかお前の中ではとても大きな足かせになっていたとは……もう少し早く気付いてやれば良かったな……シュールよ、お前は何にも縛られちゃいない。お前こそ唯一この恥丘で自由という言葉が似合う存在だ」
「祖父さん……」

 祖父さんのその言葉で胸につかえていた何かがふっきれたような気がした。
 私は自らの足でその目であの丘の向こう側へ行ってみることにした。
 祖父さんに見送られて私はなだからなカーブを描く丘の上を歩いていた。
 もう少しでこの丘の頂上につく。果たしてそこから見えるものは何なのだろうか?
 期待に胸を膨らませながら、丘を上りきると、そこには―ー

「何もない」

 薄々気付いてはいたが、この恥丘はあまり広くない。
 一見すると広大に思えるこの恥丘だが、他の者と違い自由に動き回れる私にとってはむしろ狭いぐらいだった。
 それを口にするのは祖父さんの前でさえもさすがに躊躇われた。
 なぜなら、祖父さん達は自分から動こうとしないのでこの大地の広さを無限であるかのように錯覚しているからだ。
 例の彼女に出会うまでの私ならきっとつい口を滑らせてしまって祖父さんを今以上に困らせていたと思う。

『シュール、自分の価値観を誰かに押しつけるのは褒められたことではないわ』

 自分の価値観と自分以外のものの価値観は違う。
 外見だけは同じ存在であっても私と祖父さん達とは決定的な違いが存在する。
 それを考えずに私が思ったことをありのまま伝えてしまったならば、それはどんなに自分勝手で傲慢な行為なのだろう。
 結果的に私は彼女を傷つけることで、他の誰かを傷つけないことを学んだ。
 皮肉なものだ。こうして祖父さんに言われてやってきた丘だが、さすがにここからの光景を祖父さんにそのまま伝えるのは些か不憫に思えた。
 さて、どうしたものかと思案を巡らせていると、何もないと思っていた空間にかすかに光る何かが見えた。

「……あれは」

 と思った矢先、今まで綺麗に澄み渡っていた天に突然暗雲が立ちこめ、見たこともない白い何かが降ってきた。
 それはいくつかの大きな塊となって大地に降り注ぎ、みるみるうちに肌色の大地を白く染め上げていく。
 一見するとどこか幻想的な風景にも思えたが、私の胸の中はなぜか嫌な予感でいっぱいだった。
 先ほど丘の向こう側にチラリと見えた光も気になるが、今は何よりこの異常事態のほうが問題だった。
 丘を上がってきた道を振り返ると、あの白い塊がさっきよりも明らかに増量されて大地に降り積もっていた。

「あの辺は、祖父さんがいる場所だ……!」

 訳もなく沸き上がる不安を必死で押さえ込みながら、私は祖父さんの元へと走った。
 走ってる間にも天から降り続ける白い塊。それは大地に降り注ぎ、行く手を阻む。
 ここで迂回している時間はないと焦った私は勢いよくその白い塊に突っ込んだ。

「むおっ」

 予想していたのとは違う衝撃につい変な声を出してしまった。
 何かの塊というよりは泡状の個体と言った方がしっくりくるだろうか。
 視界が一気に悪くなり、もはや前に何があるのかすらわからない。それに体中を嫌な感触が包み込む。まるで何か得体の知れない生き物の中に入り込んでしまったようなそんな感覚だ。
 それでも私は祖父さんの安否が気になるのでかまわず前進を続けた。このまま方向さえ見失わなければ祖父さんの元へ帰れるはずだ。
 そう信じて、進み続けること数分。視界はますます悪くなってきて、もはや自分がどこにいるのかさえつかめなくなってしまった。

「しまった。このまま闇雲に進んでもますます迷うだけだ。何か……何かうまくここを脱出する方法はないのか……」

 気持ちはますます焦り、胸にうずまく嫌な予感はだんだんと大きくなっていった。

「ぎゃあああああああああ、裁きのイカズチだぁああああ!」
「天は我らを見放した」
「嫌だ、死にたくない。死にたくないよぉおおおおおおお!」
「っ!?」

 突然、自分の周りから聞こえる悲鳴に驚き、声のする方に向って走った。
 するとそこには――

「カミガミの子は天なる裁きによって、その身を天へと返す。荒れ狂うイカズチが突如としてこの大地に降り注ぎ、すべてを無に帰す。そして再び再生の時を迎えるだろう。新たなる繁栄は破壊によってのみもたらされる」
「くそ、ちくしょおおお。俺はこのあいだ結婚したばかりなんだぞ。なんで、なんでこんなことっ――」
「きゃあああああああああああ、あなたぁああああああああああ!」

 とてもこの世のものとは思えない阿鼻叫喚図が広がっていた。
 目の前で次々と消えていく命の灯火をただ黙って見ていることしかできない。

 助ける? でも一体どうやって?

 自由に動けるのは自分だけ。
 ここにいるものは皆ただひたすら死を待っている。
 それがここでは常識、当たり前、日常茶飯事。
 けれど、今目の前で行われているコレはあまりにも理不尽で、一体どんな理由があって彼らは殺されているのだろう。
 そして私はどうしてこんなところにただぼーっと突っ立っているのか。
 誰か教えてほしい。今私がすべきことが何なのかを。

「お、お前は確か、シュール。そうだ自由自在のシュールじゃないか」
「っ!」

 目の前の見知らぬ誰かに突然自分の名前を呼ばれて正気に戻る。

「お前は俺達と違って自由に動けるんだろ? つまりそれは今この状況においては誰よりも優位ということじゃないか。ならお前にやってほしいことがある。アレを……あのカミの裁きってやつをとめてくれ! 頼む、俺達じゃどうすることもできない。お前しか頼りがないんだ。この世界を救えるのはお前だけだシュール。だからどうかあのイカズチをっ―ー」

 ズシャッという聞き覚えのない音。
 今目の前にいた見知らぬ誰かが一瞬にして消滅した。
 いや、視界では確かにそう認識できるが、当然頭はついてこない。
 これは一体何の冗談だ? カミの裁き? 私が止める?

「ははは……」

 極限状態にまで追い詰められた精神は笑うという行為でなんとか安定を保とうとする。
 しかし、そんなのはその場しのぎにしかならない。あっという間に崩れるのは自明の理だった。

「シュール。シュールがいる!」
「おい、お前、アイツをとめてくれ!
「そうよ、私達じゃどうにもできないわ」
「お前、動けるんだろ! ならその能力をこの一大事に使わなくてどうすんだよ!」
「そうよ、はやくなんとかしなさいよ。でないとわたっ――」
「きゃああああああああああああああ!」
「うわぁあああああああああああああ!」

 次々と失われていく命。
 私はもはや何が何だかわからなくなって、その場から逃げ出した。
 逃げ続けている間も背後から悲痛な叫び声が聞こえ続ける。
 途中誰かに出会うたびに助けを求められるが、ただ動くことができるだけの私に一体何ができるというのか。
 助けたいという思いと自分には何もできないという矛盾した思いがせめぎ合ってるうちに助けを求めてきた相手がその身ごと無くなってしまっている。
 読んで字のごとく、無だ。
 普段散歩していた道も。数少ない気の合う仲間と談合していた広場も。あの人がいるお気に入りの場所へ続く通り道でさえも、みな同じように何もないただの肌色の大地へと変わってしまっていた。
 散歩していたときにいつも挨拶していたあの仲の良い夫婦達も、自由に動ける私を仲間はずれにさせないように必死で周りに働きかけてくれていたあの仲間達の面影すらも、もうどこにも残っていない。
 そして、今の私にとってとても大切な何かを教えてくれたあの人。
 そうだ、あの彼女は無事だろうか。
 私は無尽蔵に溢れてくる涙を拭いながらも彼女のいるお気に入りの場所を目指した。

 しかしそこには――

「あら、シュール。こんにちは。どうしたのそんな情けない顔して。また誰かに嫌みを言われたのかしら?」
「っ――」

 ――体の半分をごっそり失っているというのに今までと変わりない笑顔で微笑みかけてくれる彼女の姿があった。

「そ、その体……」
「あぁ、さっきあのイカズチが私のところにも落ちてきて、この身を半分持っていったの」
「持っていったって……そんな……あれはそんな生やさしいものじゃ……!」

 ここに来るまでに見てきたもの達の対応とは明らかに違うその有様をみて、私はかける言葉を失った。
 自己の保身を優先するばかりに、私に難癖をつけて罵声を浴びせてくるものも確かにいた。
 純粋に助けを求められて、それでもなんとかしたいと思った私の目の前で消えていくもの達の声も聞いた。
 でもそのどちらもが自分の命をなんとかしてこの大地に繋ぎ止めたいという悲痛な思いを叫んでいたのは間違いなかった。
 自分がもし彼らと同じ立場なら同じ事を思ったに違いない。
 けれど、彼女は違う。彼女の目は死を目前にしてなおその美しい輝きを失ってはいなかった。
 むしろこれは当然のこと……いやあるいは必然の出来事であるとさえ割り切っているように見える。
 彼女はどうしてそこまで――

「シュール。貴方が考えていることが私には手に取るようにわかるわ。けれど前にも言ったように、私には私の価値観。貴方には貴方の価値観が存在する。一体どちらが正解なんてのはこの世の中には存在しない。そう思ったからそうする。そう思わなかったからそうしない。そうやって世界は個を中心にしつつも、全体としてはさほどズレが生じないようにゆるやかに形成されていくのよ」
「…………」

 彼女の優しい声がいつものようにすうっと胸の中に落ちていく。
 けれど、今のこの状況では彼女の言葉の意味を一つ一つゆっくりと解読することはできない。
 一体彼女は何を言っているんだろう? 私に何を教えてようとしているのか。
 この期に及んでさえ、彼女は無知な私に必死で何かを伝えようとしている。ただそれだけは分かる。
 だから私は彼女の発する言葉を一字一句聞き逃さないようにと耳を傾けた。

「シュール。落ち着いて聞いて。今貴方がすべきことはたった一つだけ」
「私がすべきことはたったひとつ……」
「そう、難しいことは何も考えないで。貴方はただここからいつものようにお祖父さんの元へ帰るの」
「帰る? それだけ?」
「そうよ、それが今貴方がすべきたった一つの事よ」
「…………」

 混濁していた頭の中から余計なものを追い出してゆく。
 彼女の言葉により、自分が今すべきことが何なのかはっきりと意識することができた。
 でもそれは――

「できない。それじゃ君は一体どうなるんだ? 私がここからいなくなってしまえば君は――!」
「シュールよく聞いて。私はもう貴方に救われているわ。貴方がここに来てくれたおかげで私の生き方や考え方は一変した。それはもう今までがほんと嘘のように光り輝く日々を貴方は私に与えてくれた。それだけで十分すぎるほどよ」

 私が彼女を救っている?
 そんなはずはない。
 だって私はいつだって彼女を傷つけるようなことばかりしてきた。
 それなのに、なんで彼女はこんなにも眩しい笑顔で私に接することができるのか。

「私には分らない。自分で自分が分らない。それなのにみんな私に救いを求めるような目をむけてくる。そして君はそんな私に救われたと言う。私自身は何もしていない。いや私にはそもそも何も出来ない。私はもう動きたくない。こんな訳の分らない気持ちを抱えるぐらいならいっそ君たちみたいにこの場にずっと留まりたい……うぅ……」

 たまらず涙を流してしまう。
 いろんなものが一度に押し寄せてきて、もう何が何やらわからないぐらい頭はぐちゃぐちゃだ。
 けれど、そんな情けない状態の私を見ても、彼女は蔑むどころか、むしろ当然のことのようにこう言った。

「もっと近くにきて、シュール。私が貴方のその不安ごと抱きしめてあげるから」
「……ぐずり」

 鼻水をすすりながらも私は彼女に言われたとおり、そばにまでやってきた。
 近くで見れば見るほど彼女の体の異常さがはっきりと認識できる。
 体の半分をごっそり失い、この場に立っているのがやっとの状態に見えるのに彼女は笑顔を絶やさない。

「貴方のその考えて考えて深みにはまる性格はとてもかわいいと思うわ。不謹慎だけれど、私はそうやって悩んでるときの貴方がとても大好きなの。だって一生懸命なんですもの。私達が考えもしないことで悩み、思いも寄らない結論を導き出す。私にとって貴方は風船のようなもの。外から見ている分にはとっても可愛いけれど。きっとその中には私には分からない、いろいろなものが渦巻いているのね。そして、それに耐えきれなくなった風船はいつか破裂して消え去ってしまう。貴方にはそんなことにはなってほしくない。だから今は気が済むまで泣いて……私のこんな体で貴方を癒せるとは思えないけれど……まだ、今の貴方を支えるぐらいの力は私には残ってるわ」

 彼女のなすがまま、言われるがままにこの身を預ける。
 これじゃあまるで真逆だ。本当なら私が彼女を支えてあげなければいけないはずなのに。
 でも今はもうこれ以上何も考えたくない。彼女の柔らかい体と優しい温もりが私の心を落ち着かせる。
 あーそうか、私はこうやって誰かの胸に抱かれたかったのかもしれない。
 周囲と違う自分を自覚してからは誰かに甘えるという行為をしなくなった。
 けれど、ほんとは甘えたかったのだ。誰かにこうして抱かれるように甘えたかった。これが私の本当の気持ち。

「――さん」
「よしよし。良い子良い子」

 いつまでそうしていただろうか。気づいたら周りはとても静かになっていた。
 彼女に抱かれることで私の心は再び安定を取り戻すことができた。
 けれど、現状はおそらく何も変っていない。いやむしろ悪化しているかもしれない。
 それでも私は……

「そろそろ行くよ」
「そう、良かったわ。こんな私でも貴方の役に立てて」
「そんな、私はいつも君に……いや、そうじゃないな。うんありがとう。君のおかげで私はとても大切な何かを手に入れた気がする」
「ふふ、貴方がそんな風に笑った顔、初めて見るかも」
「え? そうかな、私はいつも笑っていたつもりだったけど」

 どちらからともなく、くすくすと笑い出す。
 こんな絶望的な状況で笑い合うのはおかしなことかもしれない。
 けれど今の私達の笑うという行為はこれから前に進むための大事な儀式でもあった。

「じゃあ、行ってくるよ」
「うん、お祖父さんによろしくね」
「あぁ……その……」

 これがもしかしたら彼女との最後の別れになるかもしれない。
 私はなんと言って別れたらいいのか悩んだ末にこう言った。

「また来るよ」
「うん、待ってる。貴方にまた会えることを楽しみにしてるわシュール」

 そして、私は二度と振り返ることなく彼女の前から立ち去った。
 もう迷わない。迷ってはいけない。
 私はだんだん足を速めると、祖父さんがいる場所に向かって全速力で走った。
 この大地の上で唯一自由に動き回れる存在。
 誰よりも速く、誰よりも広く世界を見渡せるそんな自分。
 けれど本当は何も知らなかった。ここにいる誰よりも私は無知であった。
 それを自覚した今、私は知らなければならない。
 私がここにいる意味、そしてこの世界の仕組みを。

「はぁはぁ……祖父さん……」
「遅かったなシュール」

 いつものように祖父さんは、帰宅時間が遅くなった孫を心配するような優しい口調で言った。
 その顔には微塵の焦りもなく、目の前に広がる残酷な光景にさえ微動だにしない。
 それがかえってより祖父さんがすべてを知る存在だということを強調していた。

「教えてくれ祖父さん。なぜ私はここにいる。あんたは一体私に何をさせようとしている」
「シュールよ。この光景を目に焼き付けておくがいい。これが世界の終わりの光景だ」
「………………」

 私は祖父さんに言われるがままに辺りを見渡した。
 何もない。見渡す限り肌色の大地しか見えない。
 つい数時間ほど前までは黒々としたハヤシが鬱そうと生い茂っていたのに。

「祖母さん、いや私の妻もこうして数年前に私の前から消えていった……」

 そう言うと祖父さんは何かを決意したかのように、私の目を見つめてきた。
 その圧倒的な眼力に気圧されまいと、私も精一杯の力を瞳に込めてにらみ返す。
 すると、祖父さんは何がおかしかったのか、クスリと小さく微笑むととんでもないことを口走った。

「お前がその祖母さんの生まれ変わりだ」
「――え?」
 
 意味が分らない。いや言葉の意味は理解できる。そうじゃない。
 祖父さんは何寝ぼけたことを言っているんだ? 私が祖母さんの生まれ変わり?
 そんな馬鹿なことあるわけ……。

「無理もない。こんな話を信用しろと言うほうがおかしいだろう。だが、お前にはいずれ話さなければならないと思っていた」

 祖父さんの目は真剣だ。少なくともそれが嘘をついてる目ではないことだけは分かる。
 だから私は今すぐにでも叫び出したい衝動を抑えて努めて冷静に問い返した。

「私が、祖母さんの生まれ変わり? それは一体どういうことなんだ祖父さん」
「ふむ、今のお前になら話しても大丈夫だろう」

 そう言うと、祖父さんはゆっくりと話はじめた。

「あの時も、私と祖母さんはここで二人気の向くまま目の前に広がるハヤシを眺めて談笑していた。それが突然、先のように天に暗雲が立ちこめ、あの白い塊がこの地に降り注ぎ裁きのイカズチが下った。そのあとはお前も知っての通り、瞬く間にハヤシはその存在ごと狩り取られていった。この大地の至るところから聞いたこともないような悲鳴がたくさん溢れた。でも私が本当にショックを受けたのはそんなことじゃない。すぐ隣にいる祖母さんが私の目の前から一瞬にして消え去った――それが私にとっての最悪だった」

 心の底から悲痛を叫ぶような祖父さんの表情に私の胸はひどく締め付けられた。
 私が何も言えずに戸惑っているのを知ってか知らずか祖父さんは淡々と話し続ける。

「なぜ祖母さんだけが狩られて私だけが生き残ったのか。私は何度も天に懇願した。祖母さんをやったなら私もやれと。どうして私だけを生かしておくのか。そのあまりの理不尽さに耐えきれず私は幾度も天に向かって叫んだ。けれども天は何も答えない。分かってはいた……アレにはこちらの声は届かない……。アレはただ自分が狩りたいときに狩りをし、したくないときはしない。ただそれだけの存在あるいは現象だ。私達はこの大地に縛り付けられているだけ。逃げるなんて発想がそもそもない。それを理解してしまったとき私は考えることをやめた。そして、祖母さんが消えて何年か過ぎ去り、ハヤシは持ち前の生命力の強さで以前のように力強く命を吹き返していた。いつの間にそんな時間が経過したのか私にはどうでもいいことだったが、そこで無視できないとんでもない事が起こったのだ」
「とんでもない事?」
「そう、シュール。お前が私の前にやってきたのだ」
「!」

 私に両親がいないのは祖父さんに聞かされて知ってはいたが、こうやって改めて祖父さんの口から自分の出生の秘密を聞かされると正直どう反応していいか困った……。

「お前の前でこんなことを言うのもあれだが、最初は不気味だったよ。突然目の前に現れた黒い塊は私の周りをずっとふよふよと飛び続けていたのだから」

 それは確かに不気味だ。まさか自分がそんな変なものから成長した存在だったなんて。開いた口が塞がらない私を無視して祖父さんはさらに続ける。

「しばらくすると、その黒い塊は祖母さんのいた場所にゆっくりと降りてきた。完全に祖母さんがいた場所に根付いたかと思うと、それは急に成長をし始めたのだこうニョキニョキと……」
「……」

 いや祖父さんがそんな冗談を言うはずはない……言うはずはないのだが……。

「なんだ、その目は。もしかして私を疑っているのか? まぁ確かに私も当時は信じられなかったが、今思い返してみれば、あれは祖母さんの加護だったのかもしれないと思うようになった。シュール。今更お前に祖母さんの代わりになってくれとは言わない。ただ知っておいてほしい。今のお前は私にとって祖母さんと同じくらい大切な存在であると。お前が何者であろうと、それだけは決して変ることはない。これまでも、そしてこれからもな」
「……祖父さん」

 祖父さんの優しさがなんだか照れくさい。祖父さんが言ったことが事実だとすれば、私は矢張りここにいるみんなとは違う存在だということになる。
 けれど、祖父さんはそれでも私を大切な存在だと言ってくれた。それにあの彼女も。
 ようやく分かった気がする。私がここにいる意味。そして、私がこれからすべきことも。

「祖父さん一つ教えてくれ。あのハヤシはまた元に戻るというのは本当なのか?」
「あぁ、ただしそれは何もかも元通りという意味ではない。あのイカズチによって一度狩られてしまったものはもう二度と蘇ることはない。それは当然のことだ。我々は永遠ではない。必ずどこかに始まりがあり、そして終わりがやってくる。つまり、私達が消えてもまた次の世代が生まれてくる。たったそれだけのことだ。お前が心配してるほど、この大地は絶望ばかりではない。お前がどんなもの達に出会ってきたのかは私には分からないが、その中には現状を受け入れ、明日に希望を見いだしているものもいただろう」
「……いたよ、祖父さんと同じように絶望の淵に立たされてなお、光を見失っていなかったものが……たしかに」
「そうか……」

 祖父さんはそう頷くと、それ以上のことは詮索してこなかった。
 私は一瞬、例の彼女のことを包み隠さず祖父さんに伝えようとも思ったが、彼女のことを知ったところで、祖父さんは彼女に会いに行くことができない。それを考えると、黙っている方がいいのかもしれないと思い伝えなかった。
 逆に彼女には祖父さんのことを何度も話してしまっていたが、彼女は動けなくてもこの世界のことをより多く知りたがっていた。
 だからどちらが正解なんてのはないのだろう。彼女が言ったように。

「さて、これからどうするシュールよ」
「どうするも何も、まずは今この現状をなんとか……」

 ……しようにもあのイカズチを止める方法は分からない。ならば、唯一この大地で自由に動けるこの能力を生かして、祖父さんのようにまだ狩られていないもの達を助け――

「まさかとは思うが、お前一人でまだ生き残っているもの達を助けに行くなどとは言わないだろうな」
「なっ!」

 どうして祖父さんまで私の考えていることが読めるんだ? あの彼女もそうだった。
 まさか私は知らず知らずのうちに自分の考えを口にしてしまっているのだろうか。

「何を勘違いしてるのか知らんが、お前は考えていることが顔に出やすいのだ。それにお前の性格から考えればきっとそう言うだろうと推測したまで。決してお前の心を読み取ったとかそんな変な能力は私にはない」
「……」

 それでも私には十分すぎるほどの驚きだ。自分がそんな分かりやすい顔をしていたなんて。
 でもだからって私の考えまで否定される謂われはない。

「どうして助けに行っては駄目なのか。祖父さんは心配じゃないのか? 同じ大地に住むもの達が今もどこかで祖母さんと同じような目に遭っているんだ。それでも祖父さんは助けに行くなというのか」
「駄目とは言っておらん。ただ本当にそんなことをして喜ぶものがいるかどうかは甚だ疑問だ」
「それでも私はっ!」
「落ち着けシュール。お前がやろうとしていることは確かに立派な事だ。だが、動くことの出来るお前と動くことの出来ない私達ではどうあっても相容れない価値観というものが存在する。そんなお前が私以外の……いやお前の能力を受け入れてるもの以外のヤツらを助けに行ってみろ。感謝はおろか、むしろ唯一動けるお前を非難して、荒れ果てた大地がますます荒れゆくことになるぞ」
「そ、そんなのやってみないと分からない!」
「では言い方を変えよう、お前がもし動けないものの立場で、すべてが終わったあとに動けるものが助けに来たと言ってお前の前に現れたとしよう。お前の周りの家族や友人はみんないなくなってしまった状況を想像するとよりよく分かるだろう。さぁ、お前ならどうする? 動けるものを一体どんな風に出迎える? 素直に差し伸べられた手を受け入れるか?」

 無理だ。親しいもの達はみんな息絶えて、唯一生き残った自分の元に動けるものが今更やってきたとしても、そんなの受け入れられるわけがない。
 だってそいつは唯一この大地を自由に動き回れるのだ。みんなが等しく狩られている間、自分だけは自由に逃げることができた。
 そんなやつがのこのこと逃げなかったもの達の前に現れてみろ。それは冒涜以外のなにものでもないではないか。
 私はすべてを失った彼らの尊厳までも奪おうとしていたのか。

「くっ……くそ……どうして私は……」

 こう何度も何度も同じような過ちを繰り返そうとするのだ。彼女に言われたことをまるで分かっていないじゃないか。
 こうしてまた祖父さんに止められなければ、私はきっと――。

「結局お前一人ではどうにもならないってことだ」

 そんなことは分かっている。分かっているが、じゃあ私は――

「じゃあ私は何をすれば!」
「何もしなくていい」
「え?」

 思わず出てしまった心の叫びに祖父さんはあっさりと答えを返した。
 まるで私が悩んでいたのがバカみたいだ。自分からこれからどうすると聞いてきたのに、何もしなくていいとは。
 祖父さんの考えていることが私にはまるで分からない。

「私の本音だよ。お前にはもうこれ以上何もしてほしくない。お前が動くことで他のものが傷つくかもしれない。でも本当はそんなことはどうだっていい。私が心配なのは、お前自身が傷つくこと。お前は優しいから、きっと他のものに責められても耐え続けるだろう。それでもお前はお前に出来る精一杯のことをしようとするだろう。私にはそれが耐えられんのだ。お前の悲しむ姿をこれ以上見るのは忍びない。ならばもう、動く必要はない。お前はずっと私とここで暮らしてくれればそれでいいと思ってる。お前の価値観からすれば間違ったことを言ってるかもしれない。それでも私が一番大事なのはシュール……お前ただ一人だけなのだ」

 祖父さんが泣いたところを初めて見た。溢れる涙を拭おうともせずに私に語りかけるその眼差しは何物にも代え難い輝きを持っていた。
 私は考え違いをしていたのかもしれない。所詮私一人ではこの大地は救えない。そんなのは傲慢だ。それならもういっそすべてを受け入れ、皆と同じようにこの大地に根付くのがいいのかもしれない。
 少なくとも祖父さんにとってはそうすることが一番幸せなことなんじゃないだろうか。
 次にあのイカズチが落ちるまではずっと一緒だ。もしまた片方だけがやられたとしても、祖父さんが言うように、次の世代が生まれるのを待てばいい。そして伝えていけばいい、この大地で起こった様々な出来事を。
 それがありのままを受け入れるということ――。

 私は大きくひとつ深呼吸をすると言った。

「ありがとう、祖父さん」
「分かってれたかシュール」
「あぁすごくよく分かった。……でも祖父さん、私は行こうと思う。この大地を救う道を私はこの足で歩こうと思う」
「……シュール」

 また祖父さんを悲しませてしまったか。でも私には分かってしまったのだ。祖父さんが言うように何もしないのが一番だと思う。でも私は祖父さんではない。私には私にしか出来ない何かがきっとあるはずなんだ。それを探し出すまではここで立ち止まるわけにはいかない。

「そうか、矢張りな。お前のその頑固なところは死ぬまで変らんか。かっかっか! あっぱれ!」
「祖父さん?」

 さっきまでの暗い顔はどこ吹く風。祖父さんの表情は打って変わって五月晴れだった。

「ならばもう私から言うことは何もない。思う存分探すが良い。お前自身が信じる救いの道とやらを。やれやれこんなことならあんな泣き真似演技なんてしなくても良かったかもな」
「な、祖父さんあんたまさか私をため――」
「私は今も昔も嘘つきだ。それを見抜けなかったお前はまだまだ未熟ということだ」
「ぐぬぬぬ」

 それでも私には分かる、祖父さんは意味のない嘘はつかない。
 祖父さんが嘘をつくのは今も昔も私のためだったということを。

「とりあえず、あの丘の向こうを目指してみようと思う」
「ほほう。矢張りあそこには何かあったのか?」
「いや何もなかった。ただ気になることはあった。あの向こうは完全な闇じゃない。私はかすかに光る何かを見たんだ」

 そうずっと気になっていた。あのイカズチが落ちる前、闇の向こうに光る何かを見たことが。私にはアレを確認する義務がある。いや、もうそんな堅苦しいのはよそう。私は見たいのだ。あの闇の向こうに広がる世界を。

「じゃあ行ってくる」
「うむ、気をつけてな」

 お互いにそっけない挨拶だが、これでいい。
 これっきりもう会えなくなるわけじゃない。祖父さんはずっとここにいる。そして私はこの自由に動ける足でまたここに戻ってくればいい。そう私にはちゃんと帰る場所が――
 と、突然大地が激しく揺れ動く。

「じ、地震!?」
「むぅ……矢張り来たか……」
「祖父さん、コレは一体!」

 私が慌てて祖父さんに駆け寄ろうとすると、祖父さんは険しい表情でこちらをにらみ返した。

「お前は行け! 何も考えずあの丘の向こうを目指せ!」
「しかし、それだと祖父さんは!」
「馬鹿もんが! たかだか、大地が揺れたぐらいで大騒ぎしおって。こんなのは前の時もあったことだ。私の経験上この揺れはあとしばらく続く。しかし、数十分もすれば揺れは収まり、再び大地は平穏を取り戻す。私達には何の影響もない。その程度のものだ。だから私達のことは心配しなくていい。むしろ逆に急いだ方がいいかもしれん」
「どうして!」

 揺れがだんだん大きくなり、立っているのもやっとの状態だった。

「この大地の揺れと、お前の言う救いの道とやらは関係しているような気がする。確信はないが、おそらくこの揺れはあの丘の向こうから来ている。なぜか私にはそう思えるのだ。だが私はそれを確認する術を持たない。それがシュール。お前になら出来るのだ。この揺れが収まると次はいつ来るのかわからん。なんせイカズチのあとに起こる現象だからな。だからチャンスは今だけだ。私のことは心配しなくていい。全力で走れシュール! お前の信じる道を突っ走るんだ!」
「わ、分かった!」

 祖父さんがそう言うならきっとあそこに何かあるんだろう。
 後ろ髪を引かれる思いだったが、私は何とか自分を納得させて丘に向かって歩き出した。
 まだ揺れが大きくて走ることはできないが、祖父さんが言っていることがほんとだとしたらこの揺れが収まる前にあの丘のてっぺんにはいたほうがいいだろう。
 もう迷ってる暇はないんだ。
 最後にもう一度だけ祖父さんの方を振り返る。

「祖父さん、また絶対帰ってくるから。それまでどうか元気で! そして今まで本当にありがとう。私はあんたに育てられてほんとによかったと思ってる。私の一番も祖父さん……あんただけだ!」
「はっ! 今更気づいても遅いわ! しっかり見つけてこい。お前の信じる夢ってやつを。そしていつかきっと――」

 それ以上は何を言っているのか聴き取れなかった。
 でも私には分かる、祖父さんが一体どれほどの寂しさを押し殺して私の背中を押してくれたか。
 それを無駄にするわけにはいかない。私はここで何かをつかみ取らなければならない。
 祖父さんのために……自分のために……そしてあの彼女のためにも。

 丘のてっぺんに来る頃には揺れもだいぶ収まっていた。辺りを見渡すが矢張り何もない。
 と、よくみると闇の向こうに何か道のようなものが浮かんでは消えてゆく。
 丘の端――陸地がなくなっているギリギリのところまで行ってみると、信じられないものがそこにあった。

「な、なんだこの赤黒く変色した丸い物体は……」

 と、突然その赤黒い物体が丘に向かって突進してきた。

「うわああああああああ!」

 慌てて後ろに下がるが、バランスを崩してその場に大きく尻餅をついてしまった。
 ヤバイと頭を咄嗟にガードしたが、しばらくしても何も襲ってはこなかった。
 恐る恐る目を開けてみると……

「消えた? いや違う。これは……」

 なんということだろう、あの赤黒い物体は今私が立っているこの丘にぶつかって一体化してしまっている。
 まったく訳の分らない状況に困惑していると、先ほどと同じような地震が再び起こった。

「くっ、そうか。あれが地震の正体か」

 あの赤黒い物体がこの丘にぶつかることで振動が発生し、大地に揺れを生み出していたのだ。
 確かにこれだけでは祖父さんがいる辺りには揺れが伝わるだけで被害は特にないだろう。
 ほっと安心したのもつかの間、揺れに耐えながらよく丘の向こうを見つめると矢張り何かの道のようなものが見え隠れしている。

「もっと近づいてみないと」

 大地に這いつくばりながら私は道らしきものを探す。
 するとどうだろう。あの赤黒い物体は単体ではなく、その背後に太くて大きな茶褐色の道を一緒に引き連れているではないか。

「そうか、そういうことか」

 あれはこっちの大地とまだ見知らぬあちらの大地とをつなぐ通路に違いない。
 で、理由は分らないがあの通路が出現するのは裁きのイカズチが終わった直後。
 それを確認できるヤツはこちらの大地にはいなかった。
 唯一、私というイレギュラーを除いては。

「もしかしたら、私のような存在があちらの大地にいるのかもしれない。祖父さんは言っていた。私は最初黒い物体のようなものでふわふわと飛んでいたと」

 だとすれば、そんな意味不明な物体がやってくるとしたらここから以外にない。
 向こう側に渡ればきっとあのイカズチの謎も、私という存在の謎も解けるかもしれない。
 コレは行くしかない。なのに、どうしてこの足はこんな大事な時に――

「動かない。どうして、目の前に答えに続く道があるというのに。なぜ私は動けない!」

『私が一番大事なのはシュール……お前ただ一人だけなのだ』
『うん、待ってる。貴方にまた会えることを楽しみにしてるわシュール』

 そうだ。分かってる。私にはもう自分以上に大切な存在が二人もここにいるんだ。
 それでいいじゃないか。それ以上何を望むというのだ私は。
 私の足は自然と彼らがいる方向に向かって向きを変え始める。
 そうだ、帰ろう。たとえ向こう側に私が求める答えがあったとしても、もう一度こちらに戻ってこれる保証はどこにもない。
 あのイカズチは定期的に落ちるようだが、この通路まで同じように定期的に繋がるとは思えない。
 何かの偶然が重なって起きた現象なのかもしれない。私のことも。偶然が重なった結果、私はこちら側に流れ着いただけなのかもしれない。
 それならいっそそれを受け入れ、こちらで祖父さん達と一緒に過ごすのが正しい選択なのかもしれない。
 そう考えるともう、ここから先へ進むことは無駄なような気がしてきた。

『シュール。落ち着いて聞いて。今貴方がすべきことはたった一つだけ』
『全力で走れシュール! お前の信じる道を突っ走るんだ!』

「あぁ、まったくそのとおりだな」

 走った。

 何も考えずただひたすらに前に。
 
 そうすることが私の使命だと言わんばかりの勢いで、足を前に押し出す。

 息が乱れるのもかまわずただただ前に向かって走る。

 彼女は一人でも大丈夫だと言った。

 祖父さんは一人だと寂しいと思っていた。

 私は一人では何も出来ないと痛感した。

 だから走る。

 彼らの思いを胸に私は走り続けることを選ぶ。

 たとえそこに終わりがなくても。

 行けるところまで私は突き進もうと思う。



 なぜなら――



 私はシュール・ストレミング。

 この大地で唯一自由に動き回れる存在。

 私は今日、新たな大地への第一歩を踏み出した。




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テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

恋のバイヴレーション
 目の前に広がるのはエロ本の山。
 いや、正確にはエロDVD、エロマンガ、エロゲーム、エログッズ等々。
 ここはこの世の最果て地にして、エロの総本山、通称――

 エロヶ島。

 ここに迷い込んだものは例外なくある一定条件をクリアしない限り脱出することは不可能だった。
 その条件というのが、そう――

 オナニーの禁止だ。

 自らの欲望に負けてオナニーをしたが最後、ここから脱出することはおろか、エロ本などのエロアイテムにその身を変えられてしまうのだ。
 そして、目の前に存在するエロアイテムのほぼすべてが、かつて人と呼ばれていたものの成れの果てである。

 そして今日もまた一人ここに迷い込んだものが――。

「くそ、なんだってんだ。さっきまで信●書店にいたと思ったら、いきなりこんな訳のわからないところへ……ここもまだ店内なのか?」

 見渡す限りのエロアイテムの数々に驚くのはまだ顔に幼さが残る青年。
 久しぶりの休みで給料日だったこともあってか、勇んで足を運んだ通いの店で、突然目の前が真っ暗になって気を失った。
 気がついてみれば見慣れない場所に立っていた。
 信●書店にしては広く、品揃えが豊富なエロアイテムに埋め尽くされた廊下を歩くこと三十分。
 青年は明らかにおかしな場所に迷い込んだことを自覚していた。

「夢か? 夢にしてはやけにリアルだな。このバイヴだってスイッチを押せばウネウネ動くし」

 ヴヴヴヴヴと元気よく音を立てて動くのはご存じ電動ディルドー。
 いわゆるひとつのバイヴである。
 なぜ青年がバイヴを手にしているかというと、答えは単純明快――今青年がいる場所がバイヴコーナーだからである。

「しっかし、よくこんなにたくさんのバイヴを集めたなぁ。さすがの俺でもこれはひくぞ」

 天上高くまで積み上げられた数々のバイヴに感嘆の息を漏らしながらも、青年の顔は妙に引きつっていた。
 それもそのはずである。さっきから歩けども歩けども出口は見つからず、見つかるのは細かくコーナー分けされたエロアイテムの品々だけなのだから。
 三十分近くも歩いて疲れ果てた青年は、しばし腰を落ち着けるためその場にどっしりと座り込んだ。

「俺以外に誰もいないようだし、少しここで休憩するか……何が何だかさっぱりわからんが、無駄に体力を消耗するよりはマシだろう」

 そう言って、持っていたバイヴを適当に放り投げた。

「いたっ!」
「っ!?」

 いきなり聞こえた人の声に青年はびっくりして立ち上がる。

「な、なんだ。誰かいるのか?」

 恐る恐る周りを確認するが、人の気配なんてものは皆無に等しかった。
 ただの空耳かともう一度その場に座り直そうとして、先ほど放り投げたバイヴの上に知らずのうちに腰を下ろした。

「ちょ、ちょっとどこに座ってんのよ!」
「っ!?」

 またしても人の声。
 今度はさっきよりもはっきりと聞こえる。
 しかも、かなり近い。
 青年は青ざめた顔で周りを見回すが、矢張り何も見つからない。

「くそ、まじやべぇ。こんな恐怖は俺も今まで味わった事ねぇぞ。悪い夢なら早く覚めてくれ。つかなんで俺がこんな目に」
「それはあんたがエロイからでしょう」
「っ!」

 聞こえた。
 明らかに人の声だ。

「ちくしょう。どこにいやがる。出てくるなら出てこい!」

 青年はますます混乱し、声を荒げて威嚇した。
 誰もいないその空間でその青年の声だけがやたらと響く。
 青年は心を落ち着けるべく、深呼吸をひとつした。
 そして、足元にさっき放り投げたバイヴが転がっていることに気がついた。

「はぁ……まぁ無理もないわ。私も最初はあんたと同じような感じだったし……」
「うわぁあああああああああああ!」

 なんと、そのバイヴから人の声がするではないか。
 青年はあまりの出来事にその場に激しく尻餅をついた。

「はいはい。落ち着いて。まぁここに来たばかりのあんたには無理な相談か……」
「な、なんだコレ」

 恐る恐るしゃべるバイヴを手にすると、青年はまじまじとソレを凝視した。

「ちょ、ちょっとどこ触ってんのよエッチ!」

 ビクン!

「うあぁああ!」
「きゃっ!」

 手にしたバイヴが勝手に動き出したのでびっくりして手放してしまった。
 その拍子にバイヴは勢いよく地面に落下し、かなりの衝撃を受けたようだった。

「あんたねぇ……さっきから人のこと投げ飛ばしたり、踏んづけたり、落としたり……レディーのことはもっと丁寧に扱いなさいと学校で教わらなかったの!」
「は、はぁ。すいません」
「謝ればいいってもんじゃないのよ! まったく……」
「は、はぁ……」

 ますます訳のわからない状況に青年はもはや考えることを放棄していた。
 その放心状態から解放されるのに十分。しゃべるバイヴに慣れるのに十分。しゃべるバイヴから今の状況を聞きだすのに十分。でそれを理解するのに三十分。

 合計一時間かかって事の成り行きをなんとなくだが把握することができた。

「なるほど、つまりここは現実から乖離された異空間で、ここに迷い込んでしまったらある条件をクリアしない限り抜け出すのは不可能だと。ふむふむ。なんだ……ただの神隠しか」
「なっ! ただの神隠しってあんたねぇ! この最悪の状況を見てまだそんなことを言えるなんてとんだイカレ野郎だわ」

 一人の青年と一体のしゃべるバイヴが何の障害もなく会話する光景は明らかに異常だった。
 だが、そんなことは意にも介していないのか青年は淡々と話を続ける。

「まぁこういうのはエロゲとかでよくでてくるシチュだしな。別に珍しくもなんとも……」
「あんたバッカじゃないの! ゲームと現実をごっちゃにすんじゃないわよ!
 現にこうしてあんたは訳のわからない事態に巻き込まれて、しかも現実世界へ戻れるかどうかもわからない状況なのよ。それでよくそんなふざけたこと言えるわね」
「ふざけてんのはお前もそうだろう。元人間のバイヴなんて初めて見たぞ」
「くっ」

 バイヴは反論したつもりが逆に自分の痛いところを突かれて、押し黙ってしまった。
 青年はそれを察して少し言い過ぎたと思ったのか、バイヴをそっと撫でると慰めの言葉をかけた。

「わ、悪かったよ。今の俺よりお前のほうがよっぽど切羽詰まってる状況だもんな。焦る気持ちはよくわかる。ちょっといろいろありすぎて調子にのってたみたいだ、すまない」
「な、何よ。今更謝っても遅いのよ」
「すまん」
「……」

 ツンとするバイヴに頭を下げ続ける青年の図というのもおかしな話だが、それ以外に説明のしようがないのでそういうことである。
 バイヴの機嫌を治すのに余計に三十分近くの時間を浪費してしまったが、まぁ仕方ないだろう。

「で、ここから脱出するための条件ってのはなんだ?」
「え? あ、うん。えっとぉ――」

 青年は改めて話題を元に戻すと、ここからの脱出方法をバイヴに聞いてみた。
 が、バイヴの返答はどこか歯切れが悪かった。
 それを訝しげに思った青年だが、また下手なことを言うとふりだしに戻りかねないので黙っていることにした。

「お、な……よ」
「なに? なんだって?」

 バイヴがぼそりと何か呟く。
 青年はうまく聞き取れなかったのでもう一度聞き直した。

「だから、おな……ごにょごにょ、よ!」

 今度は語尾をやや荒げて話すバイヴだったが、それでも青年には何を言っているのかわからなかった。

「何? 声が小さくて聞き取れねぇよ、たのむからはっきりしゃべってくれ!」

 青年はついイラっとして声を荒げてしまった。
 そしてそんな青年の対応にブチギレたバイヴもまた――

「だから、オナニーをしなきゃいいのよって言ってるでしょ! このボケナス!」
「なっ!」

 大声を上げてその身をヴヴヴヴヴと震わせると、目の前の青年を一喝した。
 今度のはさすがにハッキリと聞き取れたが、青年はそれ以上に目の前のバイヴが怖くて仕方なかった。

「わ、悪かった。今のは俺が悪かったから勝手に震えるのは勘弁してくれ。こっちが何もしていないのに震えるバイヴは冷静にみてもかなり恐ろしい光景だ」
「な、なによっ! あんたが私をそうさせてんでしょ!
 それを怖いだなんて言われてもしったこっちゃないわよ!
 そ、それに乙女の私にあんなはし……はしたない言葉を言わせるなんて、男としても最低よあんた!」
「うぅ……」

 バイヴに罵られる男の図というのもこれまたこの世の縮図を表しているようで、めちゃくちゃ情けなかった。
 まぁもっとも、実際にそんな現場に遭遇したら頭のおかしな人と思われるのが関の山だと思うが。

「まぁ……そのなんだ。オナニーぐらい我慢するのなんて楽勝だろ。それぐらいなら俺にだってできそうだ。で、それに期限みたいなものはあるのか?」
「……ふんっ……三日よ」

 青年の質問に対しぶっきらぼうに答えるバイヴ。
 あまり人からもそんな態度をとられたことのない青年は胸にズキリと痛む何かを感じた。
 ましてやバイヴに邪険にされるなんて、それこそ生まれて初めての経験だったのだ。

「じゃ、じゃあ……もし仮に三日間オナニーを我慢できなかったら、俺はどうなるんだ? もちろん脱出は不可能なんだよな? そうなると一体俺は――」
「……」

 そこまで自分で言って青年はある可能性について考えた。
 いや考えたというよりは気付いたという方が正しいかもしれない。
 なんせ目の前にしゃべるバイヴというものが存在しているのだから、導かれる答えはたった一つだけだった。

「まさか、俺もお前にみたいにバイヴになるとか?」
「……」

 バイヴの無言がかえってそれをより強調する形となり、青年は苦笑いを浮かべてその場にへたりこんだ。
 それをみたバイヴはポツポツと静かに語るように話し始めた――

「そうね、私もまさか自分がこんな姿になるなんて思ってもみなかったわ。少なくともこの場所に迷い込んだ時にすら想像しなかったことよ」
「……」

 青年は、さきほどまでと打って変わって真剣に語るバイヴの邪魔はしないように、黙って話を聞く態勢をとった。
 バイヴはなおも語り続ける。

「ここに迷い込んで、最初のウチは訳もわからずに泣いてばかりいたけど……。
 そんなことをしてもここから出られるわけじゃないって気付いて、一通りこの中を探索したの。
 そしたらどこもかしこも、こうしてエロエロなものばかり。
 私は発狂しそうになる頭をどうにか押しとどめて、何か脱出できる場所はないかと必死にあれこれ探したわ。
 でも結局出口は見つからないまま、途方に暮れていると、ある雑誌に目がついたの」
「雑誌?」
「そう、雑誌」

 もちろん、ここでいう雑誌とはエロ雑誌のことだ。
 それはバイヴ、いやバイヴに変わる前の彼女の愛読書でもあった。

「その雑誌をパラパラ捲ってるうちに、なんだかムラムラしてきちゃって……私は我慢できずに、その……えっと……ごにょごにょ」
「オナニーしたんだろ?」
「ちょ、ばっ! そんなハッキリ言わないでよ!」
「お、怒るなよ。じ、事実そうなんだから怒っても仕方ないだろ」
「くっ」

 青年はバイヴに恥ずかしい単語を言わせないように気を遣っただけだが。
 それがかえってバイヴを辱めることになってしまったようだ。
 これだから、女という生き物はよくわからない。
 苦笑する青年を睨み付けながらも、バイヴは続きを話し始めた。

「ダメだと頭では理解していたつもりだけど、なぜかいつもより感度が良くなってて……。
 その……ちょっと触っただけでも気持ちよくて、周りには誰もいないし、あるのは性欲を煽るエロイものばっかりで、魔が差したっていうか……」
「……」

 バイヴのそんな話を聞いてるうちに、青年は自分の下半身が激しく疼くのを感じていた。
 しかし、ここでそんなことがバイヴにばれてしまったら、それこそ何を言われるかわからないのでなるべく無心で聞くことにした。

「で、あとはもう快楽に流されるまま身を任せてるうちに、いつの間にか目の前が真っ暗になって、気付いたら身動きができなくなってたの。
 で目を開けてみたらそこには大きな鏡があって、ひとつのバイヴがそこに映し出されていたわ。
 それが今の自分の姿だと気付くのにかなり時間を要したんだけども……あの時の私のショックはそれこそ計り知れないものだった……」
「大変だったんだな。お前も」

 うんうん、と同情的に頷く青年がまたもやバイヴの勘に障ったのか、バイヴは再び激しく振動し、青年に向って激しく捲し立てた。

「あんたねぇ、なに他人事みたいに言ってんのよ! 私の話はそっくりそのままあんたにも当てはまるってことになんで気付かないのよ! ほんと頭悪いでしょあんた。こんな姿をしてなければ迷わず殴ってるところよ!」

 ヴヴヴヴヴヴと怒りをあらわにするバイヴにビビリつつも、青年はバイヴから聞いた話を冷静に頭の中で整理し始めていた。
 ふと、そこでひとつの疑問にぶちあたる。

「待てよ、オナニーしたらアウトってのは分かるけど、お前はそれがなんで三日間の期限付きって知ってるんだよ。その条件があらかじめわかっていたんなら、オナニーを我慢すればここを出られたわけだろ? なのにお前は……」
「………………」

 さっきまで怒り狂って振動していたバイヴの動きが急に穏やかになり、やがて音も立てずに固まってしまった。
 それを見てますます不安になった青年は耐えきれずにバイヴにそっと手を伸ばして――

「触らないで!」

 びくんっ!
 いきなりの怒声にとまどう青年。
 目の前のバイヴからは異様なプレッシャーを感じる。
 青年は恐る恐る口を開く。

「な、なんだよ。俺何かおかしなこと言ったか?」
「……」

 無言のプレッシャー。
 蛇に睨まれるカエル……ではなくて、バイヴに睨まれる青年。

「どうやら、あんたじゃないようね……」
「な……なにがだよ」

 バイヴの訳のわからない一言にますます混乱する青年。
 バイヴはそれを見て、一息つくと言った。

「ごめんなさい。あんたはどうやら私が思ってたヤツとは違うようだわ」
「は? なんだそれ? 意味わかんねぇよ」

 いきなり謝られてもなんのこっちゃわからない。
 青年は納得のいかない表情でバイヴを問いただした。

「ヤツって誰だよ。もしかして俺らの他にもここに誰かいるのか?」
「いいわ、もう一度ゆっくり話すから落ち着いて聞いて、私がここに来て見たもの、そしてここからの脱出方法を知ってる理由。それらすべてあんたに話すわ――」

 どうやら、青年はバイヴに試されていたようだ。

 バイヴが言うには――

 ここには青年とバイヴ以外にもう一人何者かが存在しているらしい。
 しかもソイツはこの空間の支配者らしき存在で、バイヴを……いや、バイヴになる前の彼女をバイヴに変えてしまった元凶。
 そして、その支配者が言うには三日間のオナニーの禁止が唯一の脱出方法だということ。
 バイヴは実際にその支配者の姿を見たわけではなかったようだが、ここに迷い込んでオナニーの禁を破ってしまったとき、直接脳内に支配者らしき存在の声が語りかけてきたという。
 バイヴに身を変えられてしまった時点でもはや自分ではどうすることもできずに、途方に暮れていたところへタイミングよく青年が現れた。
 声だけしか手かがりのない状態で、見知らぬ男が目の前に現れたらソイツが支配者かもしれないと疑うのは仕方がないことかも知れない。

「なるほど、まぁそのなんだ。つまり、お前は俺がその支配者だと疑ってたわけだな」

 青年はあくまで冷静にそう言いはなった。
 出会って間もないとはいえ、何の落ち度もない自分を疑われるのは正直良い気分ではなかったが、バイヴに怒ってもどうしようもない。
 自分がもしバイヴと同じ立場だったら同じようなことをしただろうから。

「ごめんなさい……」

 青年の言いたいことをなんとなく察知したのか、バイヴは今までになく激しく落ち込んでいるようにみえた。
 例えバイヴでも、元はただの女の子。いや女の子と呼べるような年かどうかまではわからないが。
 このままただ黙って重い空気をさらなる重くすることは青年には耐えられなかった。

「そのなんだ。気にすんな。第一発見者を疑うのは捜査の基本だしな。
 それになんだ、お前はそんな格好なんだから、自分で動くこともままならないだろうし、突然現れた見知らぬ他人の俺を素直に信用しろってのもおかしな話だ。だからその……」
「……」

 バイヴ相手に何しどろもどろになってるんだと思われるかも知れないが、青年はこのような状況にはあまり遭遇したことがないため、純粋に混乱していた。
 リアル世界にいたときから女性と接する機会もそうそうなかったので、(あったらあったで信●書店なんかに頻繁に来ないとは思うが、それは今は本筋とは関係ないので置いておくとして)正直どう対応していいか計りかねていた。

「あんた、とんだお人好しね」
「……え?」

 そんな青年のあたふたする姿を見てか、バイヴは出会ったときと同じような尊大な態度で言った。

「でも、男はそれぐらいの心の広さがないとダメだと思うわ」

 どうやらバイヴ様は本調子を取り戻したようだ。
 青年はバイヴのそんな態度をみてなぜかほっと安心するのだった。


◆◆◆


 それからしばらく、青年とバイヴは他愛のない会話に興じた。
 この異空間に順応しすぎてる青年のことが怪しくして仕方なかったと言うバイヴに対して、青年はあくまで冷静に、いやむしろ当然のことのように――

「ん? あぁだから俺エロゲとか好きだし」
「……」

 と返し、バイヴをどん引きさせていた。

 そんなこんなでこの異空間のこともなんとなく把握し、バイヴからの情報も合わせて自分の中で整理をつけた青年はおもむろに立ち上がると、こう口にした。

「よし、じゃあさっさとここからおさらばするか」
「ちょ、あんた何言って……」

 さっきまでのバイヴの話をまともに解釈するなら、ここから抜け出すには最低でも三日かかることが理解できる。
 それなのに青年ときたら今すぐにでもここから出ようとでも言うような口ぶりである。
 そんな青年の突拍子もない発言に戸惑うバイヴをよそに、青年は続けた。

「仮にお前が言うように三日間オナニーを我慢できたとしても、それで元の世界へ帰れる保証はどこにもない」
「そ、それは……」

 青年の言うことももっともである。
 ここの支配者は三日間オナニーを我慢すれば脱出できるとバイヴに言ったらしいが、それ自体がブラフである可能性は否定できない。
 バイヴも内心ではそう思っていたのかも知れない。青年の発言を完全に否定できないのがその証拠だった。

「まぁもっとも、素直にそれを信じて三日オナニーを我慢できるかどうかもわからない」

 さらに追い打ちをかけるように、青年はいつになくまじめな顔で言った。

「ちょっと、あんたさっきそんなの楽勝だって言ったじゃない! そんなのずっと寝てれば済む話じゃないの?」

 バイヴはそんな青年の不安を女の視点からあっさり切り捨てた。
 しかし、男にとってそれはそう単純な問題ではないことを青年はその身にひしひしと感じていたのだ。

「確かに一日や二日なら楽勝かもしれない。しかし三日というのは男にとっては鬼門なんだ」

 一般的に三日で満タンになると言われている男の性事情。
 若い元気な男性が魅力的なエロアイテムに囲まれたこの空間で三日も何もせずに過ごすのは不可能のように思えた。
 バイヴはそれでも三日間何もせずに寝ていればいいと言ったが……それも男にとってはある意味鬼門だった。

「いいか。女と違って男は、寝てる間にも射精することがあるんだ」
「しゃ、しゃせ……ってあんた何を言って!」
「おっと! 今はまず俺の話を最後まで聞いてくれ。あとで愚痴でも文句でも何でも聞いてやるから。今は俺の話を最後まで聞いてくれ!」
「そ、そこまで言うなら黙ってるけど……」

 青ざめる顔で捲し立てる青年の必死さが伝わったのか、バイヴは喉まで出かかっていた文句を押しとどめると、青年の話を聞く態勢に入った。

「夢精って言うんだが。眠ってる間にエロイ夢とかをみると、男は無意識にオナニーしたときと同じ現象が――つまり、射精が起こる。
 これはもうこちらがコントロールできるレベルの話ではなくて体がそういう仕組みになっているので止めることは不可能なんだ」
「で、でも。何もそんな夢ばかり見るとは限らないんじゃ!」

 バイヴの言い分はもっともだったが、青年は深くため息をつくと、バイヴに向って真剣に語り出した。

「お前、さっき自分でも言っただろ。ここには俺ら以外の何者かがいるって。しかもソイツはこの空間の支配者っぽい存在じゃないか。もし仮にその支配者の采配で、この空間がオナニーを煽るために作られているものだとしたら?」
「?」

 さすがのバイヴでも青年が何を言わんとしているのかさっぱりわからないようだ。
 頭に……この場合バイヴの亀頭部分に「?」マークが浮かんでるのが安易に想像できた。

「わからないか。まぁ俺もはっきりした確証もないんだけど、俺の予想ではここで眠ってしまうと百パーセント、エロイ夢をみる。しかも夢精を促すようなドエロイ夢をな」
「そ、そんなことあるわけっ――」
「試しに今ココで眠ってみてもいいけど、その場合。もしそれが本当だったら。おそらくそこで俺たちはゲームオーバーだ」
「くっ」

 言っていることは最低だが、青年の言葉にはかなりの説得力があった。
 バイヴもそれを悟ってか、もはや何も言い返してこなかった。
 となると、三日という期限なんてあってもなくても結局は一緒だということだ。
 夢精がオナニーの領域だと判断されるかどうかなんて、それこそ試してみないとわからないことだ。
 ここの支配者が夢精をオナニーとみなしたが最後、青年は間違いなくエロアイテムに変えられてしまう。
 そんな危険な賭けに出るほど青年も馬鹿ではないということだ。

「だから、さっさと出るんだよ。こんなところ」
「え?」

 だが、青年はさっきと同じように明るい声で、再び脱出宣言をした。

「あんた何ふざけたこと言ってんのよ。私も出口は他にないか散々探し回ったって言ったでしょ。そんなものはないのよここには。
 唯一脱出できると思われるのが、お、オナニーの禁止なわけだし」

 どこからそういう発想になるのか理解できないと、バイヴは怒り狂う。
 その反応は予想していたのか青年はニタリと気持ち悪い笑みを浮かべるとおもむろに天を見上げて叫んだ。

「おい、ここの支配者。見てるんだろ? 俺たちは今すぐにでもここから脱出したい。そういうわけだからどうだろう……ここはひとつ俺たちと取り引きをしないか?」
「あんた何、突然わけのわからないことを言って――」

 青年の意味不明な言動が理解できずにあたふたするバイヴを尻目に、青年はどこか確信に満ちた表情で辺りを見回す。
 そこには当然誰の影も見あたらないのだが――

『ふっふっふ。はははははは。実におもしろい!』
「え? うそ……なんで」

 どこからともなく謎の声がバイヴと青年の耳に届いた。
 バイヴにとっては聞き覚えのある声、そして青年にとっては初めて聞く声だが、声の正体が一体誰なのかはわかりきっていた。

 そう、それは間違いなくこの空間の支配者の声だ。

『なかなか面白いことを言う人間だ。まさか夢精までオナニーの範囲と考えるとは、さすがの私も思いつかなかったぞ、青年よ』

 よほど面白かったのか、鼻につくほどの高笑いで支配者は言った。
 声はすれども姿はみえないこの状況に青年もバイヴも身動きがとれないでいた。
 そんな中、青年はどこにいるともわからない支配者に向って語りかけた。

「やっぱりな。得てしてこの手の閉鎖空間の支配者はこの空間に紛れ込んだ人間の行動をいちいちチェックしているものだ。
 そうしないとこっちがタブーを破ったときにその罰を行使するのは不可能だからな。
 まぁもっともこの空間自体にそういう条件付けがされているなら話は別だが……」

 嬉々として饒舌に語る青年を見ても、動揺を隠せないバイヴは黙り込むしかなかった。
 青年はなおも支配者に向って話しかける。

「最初にも言ったように俺はお前に用があるんだ。少し込み入った話なんだが、できれば面と向って話がしたい。どうだ、ここはひとつお互い対等に話し合おうじゃないか」
「あんた……な、何を言って」
「いいから、ここは俺に任せてお前は黙ってろ」

 青年のそれは精一杯の虚勢だった。
 なぜなら青年の体がまるで真冬の寒空の下にいるときのように小刻みに震えていたからだ。
 もちろん、それは寒いからなどという理由ではなく、圧倒的な恐怖から来るものだとバイヴにも伝わっていたことだろう。

『ふむ。いいだろう。そういう怖いもの知らずな人間は私も嫌いじゃない。人間ごときが私と対等に渡り合おうと思っているところもまた醜くくて面白い』

 支配者のその反応に青年は不敵な笑みを浮かべた
 バイヴはもはやこうなったら成り行きにまかせるしかないと運を天に任せて祈った。
 そんな対照的な二人の間に、小さな黒い影が舞い降りたかと思うと、その影がいきなり膨張し始めた。
 それだけならまだしも、その影は周りにあったバイヴの山を自らの中へどんどん取り込んでいくではないか。
 青年のすぐそばにいたバイヴもまたその影に吸い込まれそうになった寸前で、青年は思いっきり手を伸ばしバイヴをつかみとる。
 そして、それを自分の胸に大事に抱えるように仕舞い込み、影からゆっくりと遠ざかった。
 しばらくして、吸い尽くすものがなくなった影はちょうど人間大の大きさに、その姿をゆっくりと変化させていった。

 そこに顕れたのは――

「なんてこった!」
「こ、これは!」

 二人ともその姿を見て驚愕せずにはいられなかった。

「ロ、ロリ幼女だとっ!?」
「ダ、ダンディーな叔父様……ってえ?」

 お互い、口にした相手の姿は天と地の差ほどもかけ離れたものだった。
 一体これはどういうことなのかと混乱していると、当の本人は清々しい笑みを浮かべて言ってきた。

「本来、私に姿という概念は存在しない。しかし、面と向って話をしたいと言われたからには何かしらの仮の姿を用意しなければならない。
 私はその媒体をこの空間にあるエロアイテムから創り出すことができる。
 ただし、あくまで創り出すのは素体だけだ。それ以上のものはあってもなくても一緒なので用意していない。
 そこで、私のイメージはここに迷い込んだ人間のイメージを利用させてもらっている」

 長々と訳のわからないことを述べる支配者の言葉にいまいち納得がいっていないのか、二人は頭の上にはてなマークを浮かべていた。

「つまりだ。簡単に言ってしまうと。私の姿は見る人間によって自由に変化するということだ。
 その人間が一番想像しやすいイメージが今の私の姿ということになる。
 どうだい? 納得してもらえたかな?」
「なるほど、つまり俺の、いや俺たちの好きなタイプの外見がそっくりそのまま具現化するわけか。ナイス能力だな!」
「ちょ、何バカなこと言ってんのよ! 諸悪の根源ほめてどうすんのよ!」

 さっきまでの恐怖はどこへやら、青年は手放しで相手の能力を褒め称えていた。
 それもそのはず、支配者の姿は今の青年にとって恐怖の対象ではなくなったのだから。
 どっちかというと、限りなく性の対象に近いような近くないような……。

「あーでも、あんたの言ってることもあながち間違いじゃないわ。私も姿を見たのは今が初めてだけど、そのなんていうか渋くて素敵……」

 バイヴはなぜかその身をウネウネとくねらせながら、目の前の支配者の姿に心底うっとりしているようだった。

「なんだお前、じいさんがタイプだったのか」
「なっ! ジイさんじゃないわよ! そこまで年はいってないでしょ。つかあんたにはあの大人の渋さは理解できないわよ。漂う出来る大人の気質、子供っぽいあんたとはまるで正反対ね!」
「な、言わせておけばこの野郎。つか俺にはアイツの姿は男になんて見えないし、ましてやそんなダンディズム溢れる姿には映ってねぇよ。むしろなんだ、この世の天使かと思えるほどの可愛い姿をしていて、それでいて大人のような気品を兼ね備えているというギャップがだな……」
「なに、あんたロリコンだったの」
「なっ! 俺はロリコンじゃねぇええええ!」
「どう考えてもロリコンでしょ! あんたの話を聞いてる限りじゃ、よっぽど可愛い女の子みたいじゃない。つかバカでロリコンだなんてもはや救いようがないわね」
「て、てめぇ!」
「あ、あのぉ……」

 バイヴと青年の激しい言い争いにいつのまにか支配者は口を挟むタイミングを失っていた。
 なんとか、二人の意識をこちらに引き戻そうと試みるが、暴走した二人の間に割ってはいるのはさすがの支配者でも躊躇せざるを得なかったようだ。
 仕方がないので、言い争いが治まるまで、しばし待つことにした。

 そして十分後。

「ぜぇぜぇ……つかなんでこんなことで疲れなきゃいけないのよ」
「はぁはぁ……まったくだな。ってそういやアイツはどうした?」
「ここにいる」

 支配者はどこかうれしそうな表情を浮かべながら、二人の元へやってきた。
 二人のケンカが終わるまで離れて観戦していたようだ。

「つくづく、人間というものは面白い。こんな状況下でも目の前の敵を忘れて痴話喧嘩ができるとは。君たちをここに呼んだ私の判断は正しかったようだ」
「……」
「……」

 それを聞いて沈黙する二人。
 やはり、すべての元凶はこいつだった。
 改めて目の前の存在がすべての元凶だと思い知る二人。
 それが分かったところでもはや何もできないと絶望するバイヴとは対照的に青年は努めて明るい声で支配者に向って質問した。

「じゃあ、ひとつ聞くけど、コイツをバイヴにしたのはお前か?」

 バイヴはびくんとその身を震わせた。
 青年がなぜ今更そんなことを確認するのかわからなかったからだろう。

「もちろん」
「それはお前の玩具にするためか? それとも単に気まぐれで――」
「君は少し誤解してるようだから言うけど、その子はここでのルールを破った。だからペナルティーとしてバイヴに変えた。ただそれだけのことだ。
 私は単に気まぐれとか私利私欲で人をバイヴに変えるほど落ちぶれちゃいない。まぁもっともそれを信じるか信じないかは君たちの自由だが」
「ふむ……」

 青年はそれを聞いて何かを確信したかのように頷いた。
 バイヴには青年が一体何を考えてるのかまったく想像できなかったのだろう。
 支配者に聞こえないような小声でバイヴが食って掛かってきた。

「ちょっとちょっと、あんた一体何を考えてるわけ?」
「いや、あいつそんなに悪い奴じゃないような気がするんだ」
「はぁ! それ本気で言ってんの? 頭おかしいわよあんた!」
「落ちつけって、本当に悪い奴なら俺らの前に姿を現すことはないし、ましてや、こうやって話をしている間にも向こうは俺たちを好き勝手にできるんだぜ? それをしないってことは奴にも何かしら別の目的があるってことで。もしそうならこちらの取り引きにものってくるんじゃないかって」
「取り引き? それって一体――」

 バイヴが聞き終わる前に青年は支配者に向き直り言った。

「あんたにひとつ提案がある」
「ちょ、ちょっと!」

 バイヴの制止も無視して青年は続ける。

「俺たちをここから出してくれ」

 それはあまりにも直球で、どう取り繕っても取り引きと呼べるような代物ではなかった。
 だが、それ聞いた支配者はまたもやその顔に笑みを浮かべて言った。

「ふっ。別にいいだろう」
「ほんとか!」
「……うそでしょ」

 あまりにもあっさりした解答。
 青年はそれを素直に喜び、バイヴは素直に受け入れることができなかった。

「ただし、ひとつ条件がある」
「ふむ、まぁそうだろうなぁ。そう簡単にこっちの言い分が通るわけないよな」
「や、やっぱり……」

 バイヴは明らかに落胆した様子だった。
 そう安々とこちらの言い分は通るはずもないことは、青年もある程度予想していたのだろう。
 だから努めて冷静にその条件とやらを聞くことにした。

「で、何をすればいいんだ?」
「オナニーをするな」
「それって、最初の条件そのまんまじゃねぇか」

 青年が言うことももっともである。
 そんなことは初めからわかっている。でもそれには三日間という期限がついている。
 それが真実かどうかはともかくとして、青年は今すぐにでもここから出たいのだ。
 だからその方法を教えてほしいわけであるが……。

「もしかして、三日間このまま何もせずにいろってのか? つかそもそも三日って期限は本当なのか?」
「あぁ、それは本当だ。わざわざ嘘をついても私にメリットなど何もないからな。それにここに迷い込んだ人間は三日……いや一日すらまともに我慢できずに快楽に溺れる。そこにいるバイヴのようにな」
「……」

 バイヴは目の前の支配者から目をそらすようにそっぽを向いた。

「俺は三日も我慢できる自信はない。そうなったらもう結果は目に見えてる。お前も俺が一日で我慢できなくなるのを見たいんじゃないのか?」

 青年は支配者の興味がどこにあるのか探るように聞いていく。

「そのとおりだ。だから私からの条件はひとつだけ。
 今ここで私はあらゆるエロアイテムを使って君の性欲を煽る。そのすべてに君が耐えることができれば合格だ。
 脱出でもなんでもさせてやる。ただし耐えきれずにオナニーをした場合は、どうなるか頭のいい君ならわかるね?」

 ふふんと不敵な笑みを浮かべて支配者は言った。
 青年もそれに納得したのか、文句のひとつも言わずに頷いた。
 そんな二人のやりとりを見て、バイヴがその身を静かに震わせて青年に語りかけてきた。

「あんたがどうなろうと知ったこっちゃないけど、あいつの言うことが本当ならこれでここからはおさらばできるわ。頑張りなさい。私には何もできないけど、応援するぐらいならやってあげるから」

 それを聞いた青年はぷぷぷと吹き出した。

「な、何笑って……私は真面目にあんたのことを心配して……」
「なに自分はもう諦めたみたいな言い方してるんだよ。ここを出るのはお前も一緒だろ」
「そ、そんなことできるわけないじゃない!」

 バイヴが自らの絶望をはき出すように叫んだ。

「私はもうバイヴなのよ。あの支配者が悪い奴でもそうじゃなくても、私がこうしてバイヴにされてしまったことは覆らない。私はもう元の世界へは戻れない。こんな姿のまま生きていくなんて私には耐えられない! それならいっそここで……」

 バイヴはもはや歯止めの利かなくなった子供みたいにその心の内を青年に吐露していた。
 それでも青年はそれに対して嫌悪感を抱くどころが笑顔でこう言い返した。

「大丈夫、そんなのアイツに頼んで元に戻してもらえば済む話じゃないか」
「え?」

 言うが早いか青年はバイヴの返事も待たずして支配者にもうひとつの注文をつけた。

「なぁ、お前こいつを元の人間に戻せるんだろ?」
「君は何が言いたいのかね?」

 質問を質問で返す支配者。
 青年はそれに対してニコリと笑って答えた。

「俺がこいつの分もエロ試験に耐えてやるから、もしそれに合格できたら、こいつを元に戻してやってくんねぇか」
「…………」

 支配者はしばし考えるような仕草をすると、あっさりとそれを承諾した。

「いいだろう。つくづく人間ってのは面白いな、自分より他人のために自らを危険に追い込む。だがそこがいい。
 さらにもっと面白いのは今から行う行為が他人のためとは言え、自分の欲望を解放する手段だとはこれまた矛盾している。
 これこそ究極のオナニーだ。他人を巻き込むことで君はさらなる欲求をそのうちに内包している。いいぞ。実にいい。私はそんな欲深い人間が大好きだ」

 そう言うと支配者は狂ったように笑った。
 それこそ人間とは思えないほどの醜悪な笑顔だった。
 バイヴはそんな二人のやりとりを見て、自分がいとも簡単に物事を諦めようとしていたことを小さく恥じるのだった。


◆◆◆


「さぁ、始めようか。試験は三つ。いや彼女の分も合わせると二倍の六つだ。その六つに耐えることができれば君の勝ち。私は君が言ったとおりに願いを叶えよう」
「その言葉忘れなるなよ」

 青年は支配者に釘を刺すように言うと、身構えた。
 その胸にバイヴを握りしめ、青年と支配者の一騎打ちが今始まる。

「第一試験はAVだ。これから君にここにあるAVの中から抜き度の高い作品を三つ続けて見てもらう」
「三って数字好きだなお前」
「……」

 これから勝負が始まるというのになぜか緊張感のない青年に対し、支配者は顔をしかめる。
 いまいちやる気の見えない青年に念をを押すように支配者は忠告した。

「目をつぶってやり過ごすというのはなしだ。そんなことをした場合は問答無用で失格だ。わかるな? 三つ続けて見るんだ」
「へーへー。ズルなんてしねぇよ。見りゃいいんだろ見りゃ。ほら何してんださっさと用意しろよ」
「……」

 青年のぶっきらぼうな態度にどこか釈然としない様子の支配者だったが、その指をパチンとならすと、何もなかった空間に突如三枚のDVDと大きなデジタルビデオテレビが現れた。
 おあつらえ向きにテイッシュも標準装備だった。

「さぁ思う存分鑑賞するがいい。抜きたくなったらそこのティッシュを自由に使ってくれたまえ」

 精一杯の嫌みを込めて言った支配者だったが、そんなのはさっさと無視して青年はすでにDVDを鑑賞し始めていた。
 そのあまりの手際の良さに支配者も仲間であるはずのバイヴでさえも若干引き気味だったのは青年だけが知らない事実だった。

「よし見終わったぜ! 次はなんだ、なんでもいいからさっさと用意しろよ。でないとあそこが冷めちまうぜ」
「むぅ」

 青年の言い方は最低だったが、それが支配者にダメージを与えていることは確かだった。
 思っている以上に青年は我慢強いらしい。これだけ性欲を煽られても今なお平然としているとはよっぽどの忍耐力の持ち主なのかもしれなかった。

「よし、次はエログラビア写真集だ。映像がダメなら静止画でどうだ。これも抜き度の高い三冊を用意した。一ページ一ページ飛ばさずに見るんだ。これで果たして我慢できるかな。ふふん」
「おっけー」

 青年はとくに困った様子など浮かべることなく写真集に没頭した。
 そこには悩ましげなポーズをした女性の裸体がビッグサイズで掲載されている。
 青年はその一つ一つの写真をじっくりかつ丁寧に鑑賞する。
 普通の成人男子としてはこれぐらいは家でもやっていることだが、それを客観的に見せられるのは少々キツイものがあった。
 いやむしろ、はっきり言ってキモかった。

「次だ」
「くっ……」
「次!」
「なに」
「どっこいしょ。次はまだか?」
「むぅ……」

 その後も青年は支配者が用意するエロアイテムの数々に耐え続けた。
 常人ならとっくにオナニーを我慢できずにぶっこいてるところだが、青年は息一つ乱すことなく平然としていた。
 それどころか、うれしそうに用意されたものを享受しているようにさえ思えた。
 最初はどうなることかと心配気味だったバイヴも、もはや何も言えないぐらい呆然としてしまっている。
 ひたすら女体が映し出された映像なり写真なりを大量に見て、一体が何が楽しいのかバイヴには分からなかった。
 矢張り、男と女ではオナニーに至るまでのプロセスが明らかに違うようだった。

「どうした、これでもう残り一つだな。試験が六つなんて案外少ないもんなんだな。それともここで用意できるズリネタは大したことがないってことか、ははははは!」
「ぐぬぬぬ」

 最初の三つの試験は言うに及ばず、バイヴの分である残り三つでさえ、もはや青年の手の届くところにまできていた。
 その恐ろしいまでのポテンシャルの高さ。いやこの場合は忍耐力の高さか。
 昔どこかの雑誌でオナニーはスポーツだと聞いたことがあったような気がするが、それはもしかしたら真実かも知れない。
 青年のその清々しいまでの笑顔はまさしくスポーツマンがよく浮かべるそれに似ていた。

「では最後の試験だ。最後はこれだ」

 そう言って支配者がパチンと指をならすと今度は目の前にデスクトップパソコンが現れた。
 インターネットでも使ってエロサイトでも見せる気なのかと青年は思ったが、それなら毎日家でもやってることなので楽勝だとタカをくくった。

 だがしかし、支配者の用意した試験とは青年にとって今もっとも危険なものだった。
 
 そうそれは――

「君には私が独自に選んだエロゲを三本きっちりプレイしてもらう」
「なっ!」

 リーサルウェポン。直訳すると致命的な武器。
 今の青年にとってこれほど致命的なエロアイテムは他にないだろう。
 今まで何度も青年がその口にしてきたように、青年にとってエロゲとはライフワークの一種でもある。
 この異常な状況を異常だとは認識しないぐらいにはどっぷり浸かった重度のエロゲーマーなのだ。
 ここにきて青年は初めて額に冷や汗を浮かべた。
 それを目にした支配者は笑いを堪えることができなくなって言った。

「はははは、私が君の趣味嗜好を理解していないとでも思っていたか? バカめ。そんなことあるはずないだろう。
 この空間は迷い込んだものを快適なオナニーライフへと誘う魔性の空間だ。
 私はここに迷い込んだものの性的嗜好を瞬時に判断し、より効果的にそれを相手にぶつけることが可能だ」
「くっ」
「君がエロゲ以外のエロイものにあまり反応しないことは了承済み。さっきまでの試験はいわば前座みたいなもの。
 最初からエロゲを提示して君を絶望させるのは容易いが、そんな一方的な展開は私は好きじゃなくてね。
 最後にこう、大どんでん返しみたいな展開で君を完膚無きまでにたたきのめしたいから私はあえて今までこのエロゲを用意しなかったのさ。
 分かるかい? この気持ち。おいしいものはラストにとっておく。君もよく使う手段だろ」
「……ぐ」

 もはや青年は何も言い返せなかった。
 支配者の言うことはまったくそのとおりで、青年にとってエロゲは抜きの友であり、なおかつ性欲が極限まで高まった今の状態では凶器以外のなにものでもなかったのだから。
 エロゲ以外には反応しないとはいえ、それは単純にエロゲ以外で抜くのは青年の性的嗜好上しないだけであって、エロイものを続けて何度も見せられれば体は否応なく反応してしまう。
 今まではそれを根性で表にださないようにカバーしてきたが、実際青年の体はもはや限界をとうに突破していたのだ。
 主に下半身のあたりは爆発寸前の火山のごとく今にも爆発しそうなほど固く屹立していた。

「ね、ねぇ。大丈夫? 急に顔色が変わったけど……」

 青年の胸元からバイヴが心配そうに声をかけてくる。
 だが、青年はそれにすら答えることもできないほどテンパっていた。

「さぁ、早くプレイしたまえ、エロゲは三本ともすでにこのパソコンにインストール済みだ。どうした? エロゲマスターの君ならこんなもの楽勝にクリアできるだろ。それとも何かな。今更エロゲはできませんなどと言うつもりかな?」
「……いや、やるさ」

 青年は唇を噛みしめながら言った。
 支配者の卑劣な作戦に文句の一つでもぶつけてやりたかったが、それはできなかった。
 なぜならこの展開は安易に予想できたからだ。支配者に自分の性癖がバレてしまっていることは、ヤツが自分好みのロリキャラの姿になってる時点で想像できたはずだ。
 自分の手札が相手に筒抜けだというのに余裕をぶっこいていた自分に責任がある。
 つまりこれは支配者の完璧な戦略勝ちであり、青年の凡ミスである。だから文句などでるはずもなかった。

「…………」

 青年は無言でパソコンの前に座ると、画面に用意されている三本のエロゲアイコンのひとつをクリックした。
 ここで躊躇していても埒があかない。こうなったら己を信じて突き進むしかない。
 青年は震える手でなんとかマウスを握るとゲームを開始した。

 一本目は今人気の低価格ダウンロードソフトの中でももっともリピーターの多いエロゲだった。
 内容はなんてことはない。“おっぱいの嫌いな主人公が突然異能力に目覚めて、そこら中の女という女をすべて貧乳にして犯しまくる”というありきたりなソフトだった。
 そのわかりやすさが受けたのか。はたまた貧乳属性の人間を多く取り込んだのかは定かではないが……。
 エロCGは百枚以上。攻略ヒロインも十人と低価格ソフトにしては恐ろしいほどのボリュームだった。
 なおかつフルボイス仕様で、ロリ系の声優を多く使っている。これは青年にとってかなりクリティカルな仕様だった。
 もともとおっぱいの大きなねぇちゃんは強気なものが多く、そのねぇちゃんが主人公の能力によって貧乳にされたときのギャップは凄まじいほどに青年の股間を刺激した。
 貧乳にされ、主人公に無理矢理犯されるという鬼畜な展開はこの手の抜きゲの中でもトップクラスの完成度だった。
 これで勃起しないやつはモグリだと言われるほどの不朽の名作である。

「ぐ、ダメだ。ムラムラしてきやがった。まさかこんなところでこのゲームをもう一度プレイするはめになるとは……」

 人気作とはいえ、発売してから十年ともはや古株とも言える本作品。
 青年が初めて買ったのもこのエロゲだった。ここからずぶずぶとエロゲの世界に魅了され、いろいろプレイしてきたが、やはり人生初エロゲのインパクトは伊達じゃない。
 クリアしてからかなり時間が経っていることもあり、忘れていたイベントもしばしばあって、それがより一層青年の股間を刺激したのは言うまでもなかった。

「よし、クリアだ。次っ!」
「おや、もう二本目に突入か。なかなか早いではないか。そんなに急いでいいのかな。なんなら少し休憩したってかまわないが。まぁもっともその状態で今席を立ったら我慢できずにオナニーを始めてしまうか! がははははは!」
「……外道め」

 青年は一度も支配者の方を振り向くことなく、パソコンの画面に集中していた。
 二本目のエロゲアイコンをクリックする。それもまたどこかでみたことのある有名なエロゲだった。
 それもそのはずである。これは昨年夏発売されたばかりの超大作エロゲ。
 “人間界に逃げ込んだ魔物を捕まえるためにやってきた人外のモノ達。その魔物に取り憑かれた人間は己の欲望を増大させてさまざまな事件を引き起こす。その事件の調査にあたっていたのが本作の主人公の探偵である。これは明らかに人間の仕業ではないと気付いた主人公は、人間界にやってきた人外のモノと手を組み事件を次々と解決に導く”という超大作ロマンアドベンチャーである。

 エロゲなのにしっかりとした話づくりで好を評し、個性豊かなキャラクター達は同人市場などでも愛され、その需要を無限大に拡大し続けている。
 そして、今もなお売り上げを伸ばし続けているというモンスターソフトだった。
 青年も発売日には徹夜で店に並んだのを思い出していた。これだからエロゲはやめれないと思わせるには十分の一作であった。

「コイツだ。俺はこのキャラにやられたんだ……」

 青年が指し示すのは見た目が十歳かそこらにしかみえないヒロイン。
 このヒロインも人外のモノで、見た目は幼いがすでに二百年もの時を生きている。いわゆる人外ロリと呼ばれるキャラだった。
 すべてのエロゲは見た目はどうであれ、キャラクターの年齢は十八歳以上という設定。
 だから当然、この人外キャラにもエロシーンは存在した。
 規制が厳しいこのご時勢によく審査が通ったなとネットでも話題のキャラである。

「なんて尊大なしゃべり方だ。まるで小さな子供をあしらうかのようなこの態度。なのに見た目は幼女。あーだめだ。このシーンは俺が何度もお世話になったシーンだ。こんなものみせられ――――なにっ!?」

 と、そこで青年は信じられないものを目にする。
 本来あるべきものがそこにはない。
 一瞬何が起ったのか理解できなかったが、よく目をこらすとそれはとんでもない自体だということが分かった。
 
 なぜなら――

「おい、これモザイクがないじゃないか!」

 青年はパソコンの前から立ち上がると、すぐ後ろでくつろいでいた支配者に向って叫んだ。
 支配者は待ってましたといわんばかりの顔で、青年に向って白々しく言い放った。

「それがどうした? まさかたったそれぐらいのことでそのゲームはできないとでも言うつもりか?」
「いやだって、こんなもの日本の法律が許すはずは……」
「法律だと? はっ! この空間でそんな人間ごときが勝手に決めた法に一体何の意味がある」
「……っ」

 支配者の言うことはもっともだった。
 青年はもちろん日本生まれなので、当然エロゲなりAVなりにはモザイクがかかっていることが前提だという認識があった。
 それに今までクリアしてきた試験で用意されたエロアイテムのほぼすべてにきちんとモザイクがかかっていたのだ。
 だからモザイクは当然ありきなんだと疑う余地さえなかった。
 ところが、この土壇場での無修正攻撃。不意打ちもいいところだった。
 自分の大好きなエロゲでしかも大好きなキャラのエロシーンでのモザイクなしCG。
 これが現実世界ならさぞ狂喜乱舞したことだろう。
 しかし、今はそれがかえって仇となる。
 さらなる熱が青年の股間に集中し、脳がひっきりなしにオナニーを催促してくる。

「はぁはぁ……ハァハァ……うぅ」

 青年はすぐ傍に置いてあるティッシュの箱をチラリと見たが、頭を大きく横に振ると、すぐにパソコン画面に視線を戻した。
 今は余計なものを見てはいけない。考えてもいけない。
 ただひたすら作業に没頭するんだ。たとえそれが無修正エロゲであっても。
 作業に徹すれば簡単にクリアできるはずだ。そうだ、これは回収作業だ。ただのエロCGの回収作業に過ぎない。
 俗に言えばのデバッグ作業の一環だ。デバッグとは完成したゲームに不具合がないか確かめる検査プレイのことだ。
 そう考えればオナニーしようなんて余計な意志は生まれない。
 デバッグ作業においては効率こそがすべて。締め切り前にバグがないかを必死で探す神聖で崇高な行為。

「デバッグ作業ってのはね、なんていうか救われてなきゃダメなんだ。こう、プレイする人のことを第一に考え、気持ちよく使ってもらう。それこそがデバッカーにとっての最高の褒美であり、また明日への活力でもあるんだよ」
「き、君は一体何を言って……」

 さっきまでの苦痛の表情から一転して青年の顔には菩薩のように曇り一つない神聖なほほえみが浮かんでいた。
 支配者は青年のその笑顔に得たいの知れない恐怖を感じ取ったのか、一歩後ずさる。
 たかが人間ごときがこれほどまでの精神力を保有するものなのか。
 いやこれはもう精神力というレベルの話ではない。
 
 まさしくそれは神の領域――

「こんな無修正CGばかりのエロゲが世に出せるわけないだろ。何を勘違いしてやがる。俺は怒ったぞ支配者ぁあああああああああああ! うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「ば、ばかな! もう君の体はとっくに限界を超えてるはず。なのになんだその力は!」

 青年はものすごい早さでフラグというフラグを回収していく。
 その形相はまさしく鬼神のごとく。
 バッドエンドからトゥルーエンドに至るまで無修正CGが表示されると思われるイベントはしらみつぶしに潰されていった。
 それはこのゲームを愛して止まない青年の怒りでもあり、またこのゲームを必死で作り上げてくれた制作陣への感謝の意味も込めて。一字一句すら読み逃さない。
 セーブアンドロードをうまく活用し、最速でのクリアを目指す。
 みるみるうちに埋まっていくCGギャラリーとイベント回想。
 もはや誰も青年を止めることは不可能だった。
 それこそ、この空間の支配者にさえそれは不可能に思えた。

「はぁはぁはぁ……ぐ……クリアだ」

 既に満身創痍という言葉がしっくりきそうなほど、青年の体は誰が見てもかわいそうなほどにやつれていた。
 オナニーを我慢をすることがこれほど体力を消耗するものだとは一体誰が思うだろう。
 たかがオナニー。されどオナニー。人間の三大欲求の一つである性欲を我慢することは自然の摂理に逆らう行為であり、それに伴う苦痛というものは並大抵のものではなかった。

「き、君は本当に人間か?」

 さしもの支配者からそんな言葉が漏れるのも仕方のないことだったかもしれない。
 現に今こうして、目の前にいる青年が何か得たいの知れない不気味なものにさえ見える。
 この空間では支配者こそが最上の存在であると疑いの余地はないが、こうまで不屈な姿を見せられると支配者の権威も揺らぐというものだ。
 青年は乱れる息を整えると最後のエロゲアイコンをクリックした。

「よし、これで最後だ。待ってろよ、支配者。今すぐこれを終わらせて――」

 言いかけて青年は絶句する。
 もう無修正エロゲ以上の爆弾はないと思っていたが甘かった。
 まさか、こんなところで幻のエロゲに遭遇するとは一体誰が予想したであろう。
 青年はそのエロゲのタイトル画面を凝視したまま、まったく動けずにいた。
 さすがにこの異質な空気にはさっきまで青年の懐で息を潜め見守っていたバイヴも声をかけずにはいられなかった。

「ど、どうしたの? もしかしてまた無修正? それともあんたの大好きなロリゲ-?」
「…………」

 バイヴの応答にも反応できない青年。
 ぽかんと開いた口が塞がらない。
 それほど、現実は非情なものだった。
 それを見て支配者の顔に笑みが戻る。

「さぁ、最後のゲームだ。思う存分プレイしてくれたまえ。ん? 何やら悲痛な顔をしているな。そんなにそのゲームが不思議かな? まぁそうだろう。うむ、君が驚くのも無理もない。なんせこのゲームはとある事情により市場から永遠に消え去った幻の作品なのだからね」

 そう支配者が口にしたとおり、それは今や幻のエロゲとされているリアル十二歳設定のヒロインが登場するエロゲだ。青年にとっては喉から手が出るほど追い求め、夢破れた伝説のロリコンゲームである。

「な、なんでコレがこんなところに……」

 ガチガチと歯をかみ合わせながら青年はマウスを動かす。
 バイヴはそんな悲痛な青年の姿をただ黙って見ていることしかできなかった。
 支配者は言う。

「さっきも言ったとおり、この空間では私がすべてだ。君たちの世界でなかったものがこの世界でもないなどということは常識は通用しない
 。むしろこれぐらいの芸当ができなくて支配者は名乗れないからね。ははは、どうだい? 君が今一番プレイしたかったものだよ?
 私は極上のディナーを君に招待した気分でいるよ。だから思う存分楽しんでほしい。そして心の底から快楽に身をゆだねて、自らの欲望をありのまま解放してほしい。
 そうすれば君ももう苦しまなくて済むんだ。実にいい提案だろう?」
「え? あぁ……うん……それも……そうかもしれないね」
「っ!?」

 ここにきて青年の精神は堰を切ったように崩壊しかけていた。
 バイヴは青年のそんな様子を見て、その身を激しく振動させる。
 その振動で青年が目を覚ますとでも思ったのだろう。
 だが、青年は最後の自制心でなんとかオナニーしたいのを耐えるのでいっぱいいっぱいだった。
 その二人の賢明な姿をただ笑って観察する支配者。
 三者三様、この空間では最後のバトルが繰り広げられていた。

 もはや誰が敵で誰が仲間かなんて関係ない。
 みんながみんな自分がやるべき事に集中し、あとは結果を待つだけだ。
 それが例えどんなひどい結果になろうとも、ここですべてを諦めるわけにはいかなかった。

 人間として最後の尊厳を守り抜くこと。

 オナニーとはその尊厳を一瞬で砕く行為のこと。

 オナニーをするか、しないか。

 ただそれだけのために、人はすべてをかけて闘うのだ。

 そして数時間後、決着は果たして――

「……」
「……」
「……」

 誰もがその光景を目の当たりにして言葉を失った。
 パソコン画面にはただコンプリートの文字が並ぶだけ。
 すべてのイベントCGは埋まり回想も完璧に回収されていた。

 だが、青年の手はマウスにあらず、己の下腹部にそっと添えられていた。

 そしてその机の下には何やら白く濁った液体が見え隠れする。

 負けたのか? いや負けたのならなぜ自分はまだ人の姿のままなのだろう?
 青年は思う、今はただ眠りたいと。
 このまま眠ってしまって明日になればきっとこれは夢で、起きればいつもの日常なんだと、そう思いたかった。

 けれどそれが許されることはなかった。

「……はは、ははははは! とうとうやってしまったな青年よ!」

 高らかな笑い声が惨めな姿をさらした青年をあざ笑うかのようにこだました。
 支配者はきっとこう思ったのだろう。青年がエロゲをクリアする間際、自らの欲望に耐えきれずにオナニーをしてしまったと。
 だから、これは支配者の勝ちで、青年の負けだと……。

 しかし、それを否定する怒声が青年の懐のあたりから飛び出した。

「いいえ、貴方の負けよ支配者!」
「なにっ!?」

 それはバイヴの声だった。
 完全に己が勝ったと思い込んでいた支配者にとっては予想外の言葉だっただろう。
 真っ向から勝ちを否定されて気分を悪くしないやつはいない。
 支配者は無茶苦茶なことを言うバイヴに向って一喝した。

「お前もそばで見ていたはずだぞ。そいつがオナニーしてしまったところを。
 それなのになぜお前は私の負けだと言う。それこそ、何の根拠もない言いかがりではないか。
 ここに来て今更この件はなかったことにしろとは言わないだろうな?
 まぁそんなことを言われてもこの私が認めるはずはないのだが……」
「あんたこそよく見なさい。あれがほんとにあいつの出したその……せい……精液かどうかを!」

 恥ずかしさを堪えてバイヴは叫ぶ。

「お前は一体何を言ってるんだ? その白い液体は誰がどうみても精液ではないか?
 それをなんだお前は。いかにもこれは精液ではないという無茶な言い訳をしおって、見苦しいにもほどが――」
「いいから、もっと近くで見て触って確かめてみろって言ってんのよ!」
「……むぅ」

 青年と出会ったときのような剣幕で怒り狂うバイヴにさすがの支配者も圧倒されてしまった。
 その剣幕に押され、支配者はゆっくりとパソコン机の元へ近づくと、その下あたりに付着しているドロリとした白濁液を軽く触ってみた。

「む?」

 それはちょっとした違和感。
 青年から発射された液体にしては妙に弾力があり、かつ精液独特の匂いがしない。
 いや、別の匂いならかすかにあった。それは焼き切れたゴムのような匂い。
 支配者がこの液体は一体なんだという風に首をかしげていると、バイヴが言った。

「それは精液なんかじゃないわ。私の体から溶け出した油分よ!」
「な、なにぃいい!?」

 今まで勝ち誇った気分でいたからバイヴの姿をまともに見ていなかった支配者は、目の前のバイヴの変わり果てた姿を確認し驚愕する。
 そこには体の半分以上をドロドロに溶かしたバイヴが鎮座していた。
 なんということだ。ではこの液体は本当にこのバイヴから溶け出した油分とでも言うのか。
 だとしたら一体どういう原理でこんな状況が……。

「そうか!」

 支配者は何かを思いついたかのように、椅子にグッタリして何も言わずに座っている青年に駆け寄った。
 そこにはまだまだ勃起したままの息子を握る青年の姿。そして、その胸の辺りには焦げたように赤くなった肌が露出していた。

「な、なんということだ。まさかバイヴの常軌を逸した強烈な振動で青年の動きを一瞬止め、ギリギリのところでオナニーを阻止したとでも言うのか! ありえん。そんなことできるはずがない!」

 支配者は見るからに動揺しきっていた。
 バイヴはそんな支配者の反応を予測していたのか、あくまで冷静に支配者に言ってのけた。

「これで、条件はクリアしたわ。さぁ約束は守ってもらうわよ。私を元の人間に戻し、彼と共に元の世界へ返してちょうだい」
「……くっ。まさかこんな結末になるとは」

 支配者はその場に崩れ落ちるように膝をついた
 絶対にこの勝負に負けない自信があったのだろう。でなければ、あんな無茶な条件はのむはずもなかったし、何より青年の性癖を知り尽くしていた支配者が万が一にも負けるなんて想像していなかったはずだ。
 そして今回その慢心が仇となりこのような結果を招いた。
 何より過信がすべてを狂わせるのはどこの世界にいようと共通の事柄だ。青年がそれを意識していたかどうかまではわからない。
 ただわかるのは青年のオナニーに対する覚悟が支配者のそれを上回っていただけにすぎないということ。

 オナニーは相手のいない自分との戦いだということを忘れていた支配者には到底勝ち目はなかったのかもしれない。

 オナニーとは究極の自己満足にして自己対峙だ。
 それを馬鹿にするのも崇拝するのも結局自分自身だということ。
 今回のことでオナニーの奥深さを突きつけられた支配者にはいい薬だろう。
 これでしばらくは大人しくしてくれると助かるのだが、まぁ人間ではないものの考え方など、 人間である我々には到底理解できないものなのかもしれないが。

「わかった。ここまできて今更約束を反故するのも私の紳士道に欠けるのでな。今回みたいに完膚無きまでに叩きのめされたのは初めての経験だ。これだから人間は面白い」
「ご託は良いからさっさと私を……うっ!」
「?」

 バイヴの体に突如異変が起った。
 ただの玩具であるバイヴが自身の体を溶かすほどの無茶な振動を繰り返したツケがここにきて回ってきたのだ。
 支配者はその様子を見てただごとではないと悟り、未だ椅子にボーっと座り続けてる青年を叩き起こすように引っ張ってきた。

「おい、起きろ青年! 一大事だ!」
「んぉ……なんだ? ここはどこだ? 俺はたしか幻のエロゲを……」
「寝ぼけるな!」

 頬にきついビンタを一発。

「いってぇー! なに、なんだ? 俺の目の前に素敵なロリ幼女が!」
「ええい、めんどくさい。今は時間がないので、手短に説明するが、とにかく勝負は君の勝ちだ。君を元の世界へ戻してやろう」
「は、はぁ……え?」

 まだ頭が現状についていかない青年を無視して支配者はさらに続けた。

「それと、君が大事にしていた、バイヴいや、彼女のことだが……少々危険な状態だ。このままでは人間に戻ることはおろか、その命さえ危険かもしれない」
「……………………なに?」

 ようやく意識がはっきりし、前後の状況が頭の中に鮮明に戻ってきた青年は支配者にくみつくと言った。

「おい、バイヴはどこだ! はやくバイヴに会わせろ今すぐにだ!」
「お、落ち着け、バイヴならそこに――」
「こ、ここにいるわよ。大げさね。試合に勝った男が取り乱すなんてほんと馬鹿みたい……ぐっ、はぁはぁ……」
「っ!?」

 青年が声の方を振り向くと、体の半分以上をドロドロに溶かし変わり果てた姿で横たわるバイヴが無造作に置かれていた。
 青年は赤子を扱うように丁寧な仕草でゆっくりとバイヴを持ち上げると、胸に抱きしめる。

「ちょ、ちょっと苦しいわよ。男がそんなに強くレディーを抱くもんじゃないって学校で教わらなかったの?」
「あぁ、あいにく俺の学校では大好きな人は本気で抱きしめてやれって教わったんだ」
「………………馬鹿みたい」

 だんだんと弱々しくなるバイヴの声。
 青年はすぐさまバイヴを元に戻すように支配者に進言した。
 しかし――

「ダメだ、今この状態で元に戻したらそれこそこの子の命の保証はできない。現状でここまで疲弊しきったバイヴなんて私は未だかつて見たことがない」
「くっ、それでもこの空間の支配者かよ!」
「すまない、今の私には君を元の世界へ戻すぐらいのことしかできない。だけど信じてほしい。私は決して人間の命を弄ぶような悪ではないと!」
「今までここに迷い込んだ人間をコイツと同じようにバイヴに変えてきたやつの言葉を信用しろと?」
「…………」

 青年の怒りはもはや沸点限界だった。
 いくら支配者が金髪碧眼幼女で青年の好みど真ん中だったとしても、こればかりは治まりそうになかった。

「もう、いいのよ。あんただけ先に元の世界へ帰りなさいよ」
「え?」

 そんな青年の姿を見るに見かねてか、バイヴは青年に抱かれた胸の中でそんなことを呟いた。

「はは、じょ、冗談はよせよ。せっかくここまで来たのに今更お前を見捨てろってか?
 そんなことできるはずないだろ。お前を元に戻して二人で元の世界へ帰るのが俺の描いていた最高のハッピーエンドなんだよ。
 それをお前、何自分はもう無理みたいなこと言って諦めてんだよ……」
「…………」

 支配者も青年の悲痛な表情を見て黙り込むしかなかった。
 自分が招いた種とはいえ、こんなことになるなんて想像しなかったのだ。
 人間が自己犠牲を尊ぶ種類の生き物だと知識では知っていたが、本当にそのような現場に遭遇したのは今回が初めてのことだった。

「いい? もうあまり長く息が続きそうにないからよく聞いて……」
「……おい、俺はまだお前を見捨てる気は――」
「いいから黙って聞きなさい!」
「……はい」

 バイヴの一喝にもはや頷くことしかできない青年。
 どこからともなく溢れ出る涙を必死で拭いながらバイヴの言葉を一字一句聞き逃さまいと耳をバイヴに近づけた。

「私もここでしばらく休憩したら元の世界へ帰るから、あんたは先に帰って私の凱旋帰国の準備をしてなさい。
 そうね、待ち合わせ場所は大通りの喫茶イングラムがいいかしら。あそこのショートケーキ大好きなの。よく通ってるのよ。
 あんたはそこで私が戻るまで待つの。先に食べちゃだめよ。レディーを待つのも男の仕事なんだから。
 そうね、ついでに紅茶なんかも注文しておいて。もちろん二人分よ。
 ふふ、なんだか楽しくなってきちゃった。私今まで男となんか喫茶店に行ったことないのよ? 笑っちゃうでしょ。
 でもだからこんなところに迷い込んじゃうのね。一人でいることがいつの間にか当たり前になってて、自分の欲望を解放するのもずっと一人でだったわ。
 あんたみたいに誇りも何もなくてただ快楽に溺れていただけ。あーあ、一度でいいから私も心から本気で快楽に溺れてみたかったな。
 変なこと言っちゃうけど、私のために必死でオナニーを我慢してるあんたの姿ちょっとだけかっこよかった……。うん、やっぱりいいよね、誰かに必死で守られるのって。
 あんたの胸の中熱くて心臓の鼓動がずっと近くで聞こえて、安心するとすぐ眠くなっちゃう。
 だからね、起きたらまた一緒に歩こうね。あんたはもう私の傍にいなきゃダメ……なん…だか……………ら……」
「おい、おい! しっかりしろ! おい! 起きろ! ダメだ死ぬな。死ぬんじゃない! くそ、くそ、くそぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「…………」

 バイヴが完全に沈黙して数分後。
 青年は支配者の前に立つとこう言った。

「俺を元の世界へ戻してくれ」
「……あ、あぁ、わかった」

 赤く腫らした青年の目をとてもじゃないが凝視できなかった支配者は少しだけ青年から目をそらすと天に手をかざした。
 すると、そこに大きな光の空間があらわれてそこから真っ白い階段が青年の前にまで降りてきた。

「これを上っていけば、元の世界へ帰れる。君はすばらしい人間だった。私が言うのもなんだが、君みたいな純粋な人間はそうそういないと私は思う。それは誇りに思ってほしい」
「…………」

 支配者は今度こそ青年の目をしっかりと見つめようと、振り返った。

「あぁ、お前もたぶん悪い奴じゃないんだろう。さっきはひどいこと言って悪かった。
 こんなところに迷い込む人間すべてが善人とは限らないしな。
 それに神隠しなんて別に珍しくともなんともない。現実世界で行方不明事件は数多くあるんだ。
 そいつらのどのくらいの割合がここに迷いこんだのかはわからないが、それがそいつらの運命だったんだろう。
 俺が言えたギリじゃないが、ここにはここのルールが、そして俺たちの世界では俺たちの世界のルールがあるだけなんだ。
 どっちが良いとか悪いとかじゃなくて、きっとそういうもんなんだろう。
 だから俺にはお前にもう人間を迷い込ませるのはやめろなんていう資格はない。資格はないが、出来ればあまり不誠実な出来事を招くことだけはやめてほしい。
 今回のように誰かを失うのは俺じゃなくてもきっと嫌だろうから」

 何かを吹っ切るような爽やかな笑顔で階段を上っていく青年の姿を支配者はただ黙って見つめる。
 青年が出口に到達する間際、支配者は小さな声で呟いた。

「安心しろ、私が今までに招いた人間はお前とあのバイヴの彼女のたった二人だけなのだから……そしてこれからもきっと……」
「……」

 それが青年に聞こえたかどうかは支配者にはわからない。
 光の出口はすでに塞がっており、再び暗い闇が支配者を覆い尽くしていたから。
 また孤独の時間が始まる、支配者にとっては長い長い孤独の時間が。





「ん? あれ? ここは?」

 辺りを見回す、どうやらどこかの店内のようだ。
 店内では軽快なラップミュージックが流れている。
 青年はそれに激しく聞き覚えがあった。

「これもしかして信●書店の中か?」

 目の前の棚には所狭しとAVのDVDが並べられていた。
 どこからどうみても信●書店だった。
 ふと、腕時計を確認する。

「え? うそだろ? まだあれから五分しか経ってないのか?」

 青年が例の異空間に迷いこんでから五分。
 異空間内では二十四時間以上もの時を過ごしていたように思うが、どうやらこことあちらでは時間経過の早さが違うようだ。
 まぁそれもエロゲにはありがちなことだったので今更だなと笑い飛ばす青年だったが。

「……」

 矢張りどこか気分が晴れないでいた。
 特に買いたいものはないというのに、店内をうろつく。
 すると、視界の隅にバイヴコーナーが映った。
 普段なら視界にすら入らずにスルーするコーナーだったが、今は無性に心が求めて止まなかった。

「お?」

 青年は何を思ったのか、白くてそこそこの太さのある一本のバイヴを手にした。
 よく手になじむ感触である。誰も見ていないのを確認すると、そのバイヴをそっと胸に抱きしめてみた。
 すると、どうだろう。まるであのバイヴが再び自分の元へ帰ってきたみたいではないか。

 青年は数秒だけ逡巡したあと、それを持ってレジに向うのだった。

「三四五〇円になります」
「た、たけぇ……」

 男が一人でバイヴを買うのもおかしな話だが、ここに来る客は最初からおかしなものを買い求めに来ているのでとくに問題はなかった。
 問題はなかったが、やはりその価格は青年にとっては未知の領域だった。

「なに、やってんだよ俺」

 信●書店を出ると、夕方過ぎということもあってか人通りが激しくなっていた。
 そういやこの近くの大通りに喫茶イングラムってのがあったなと思い出し、しばらくそこで人が少なくなるのを待とうと足を向けた。
 もちろん、それ以外の理由が青年をそうさせたのだったが、それを思い出すとまた泣いてしまいそうだったので、なるべく普段通りを意識して、喫茶店に入った。

「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
「え? あ、いや……ええっと連れがもう一人来るかもしれないので……」
「はい、かしこまりました。お二人様ですね。こちらのお席へどうぞ」

 自分は何を言ってるんだろう。とっさに来るはずもない相手のことを伝えてしまった。
 そんなことをしても惨めなだけなのに。心のどこかでまだ彼女がいなくなったなんて思いたくなかったのだろう。
 思わず口をついて出てしまった言葉を今更撤回することもできず、青年はそのままウエイトレスさんに案内されるまま二人がけの席に腰を下ろした。

「ご注文はお決まりですか?」
「あ、ええっとショートケーキを二つと、あと紅茶二つ」
「はい、かしこまりました。紅茶は後の方がよろしいでしょうか? それとも先にお持ちしましょうか?」
「ええっと、じゃあ後でお願いします」
「はい、かしこまりました。オーダーはいりまーす!」

 ウエイトレスさんの質問に淡々と答えながら、青年は誰も座ることのない向かい側の席をぼーっと眺めていた。
 手にはさきほど買ったバイヴを入れた袋が握られている。
 まったくどうしてこんな訳の分からないことを。自分でもどうかしてると思いながらも、ここをしばらく離れる気にはなれなかった。

 ショートケーキが運ばれてきてもしばらくは手をつけずにぼーっとする。
 周りにはさぞかし変な客に映っているだろう。でもま、それもいいかもしれない。
 今はただこうして現実を忘れて、何もかもなすがままになればいい。
 今更あの出来事が夢だったなんてオチは期待していない。期待していないが、そうだったらいいのにと何度でも思う。
 エロゲには必ずトゥルーエンドとハッピーエンドが存在する。どちらもクリアには違いない。
 けれど、青年が大好きなのはいつもご都合主義が渦巻くハッピーエンドの方だった。
 今は誰がみても完全なトゥルーエンドだろう。これが現実じゃなくてゲームだったらきっとセーブしたところからやり直してるに違いない。

「現実とゲームをごっちゃにするなよ……か」

 それは彼女が青年に向って放った言葉。
 今にして思う、それがすべての真実だったと。
 現実はやり直せないから現実なのである。
 それを今初めてきちんとした形で理解できたことを青年は彼女に感謝した。

 だからこれはそんな彼女への最後のはなむけだ。

 そう結論を出して、青年は目の前にあるケーキに手を伸ばすと――

「ちょっと、何先に食べようとしてんのよあんた」
「え?」

 とても聞き覚えのある声。
 いやそんなはずはない。だって彼女は――

「レディーを待つのも男の仕事だって私言ったよね?」
「ええっと」

 顔を上げるとそこには見知らぬ女性。
 けれど、とても懐かしい感じがした。

「ったく。やっぱりあんたに期待するほうが間違ってるのかもね。まぁいいわ。ちょうど小腹も空いてたし、タイミングもいいから食べましょ」
「…………」
「ほら、なにボーっとしてんのよ。あんたも自分の分のケーキ頼んだんでしょ。あ、なに、もしかして私のもほしいとか言うわけ? もう勘弁してよね。食い意地の張った男ってみっともないんだから」

 そういって青年の前の席に腰を下ろして、目の前のケーキを美味しそうに頬張る彼女。
 青年はそれを見てポロリと涙をこぼす。

「お前、生きて――」
「お前じゃないわ、私にはちゃんとした名前があるの」
「え?」
「私の名前は――」

 そして二人の物語は今動き出す。
 胸の鼓動がバイヴレーションのように激しく振動する。
 それはきっと、物語の始まりを告げる恋のバイヴレーションだった。



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テーマ:短編小説 - ジャンル:小説・文学

都市伝説『スク水メリーさん』
 誰かに見られているような錯覚。
 いるはずのないものがいる。
 ないはずのものがある。
 そんな得たいの知れない恐怖に俺はとりつかれていた。
 はやくこの状況から解放されたい。今すぐ楽になりたい。
 そもそもなぜこんなことになってしまったのか。

 俺がこうなってしまったのには原因がある。それは友人の些細なイタズラから始まった―――

 バイトが終わりアパートに戻ってきた俺は一服しようとたばこに火をつけたところだった。
 突然部屋の電話が鳴ったので慌ててさっき火をつけたばかりのたばこを灰皿に置くと、受話器をとった。

「もしもし?」
「……」

 数秒ぐらい待っただろうか、一向に相手からの反応がなく、俺は間違い電話か何かだろうと思って、特に何も言わずにこっちから電話を切った。
 俺は再びさきほどのたばこを灰皿から手に戻すと、口に当て、一服吸った。
 肺の中に満たされる満足感。一仕事終えたという安堵感。やはり仕事終わりの部屋での一服は格別だった。
 これを吸いきったら、今日はシャワーを浴びてそのまま寝るとしよう。
 時計の針はちょうど夜中の二時を指していた。

 シャワーを浴びてスッキリした俺は半裸姿のままで部屋に布団を敷く作業を開始した。
 と同時に再び電話が鳴り響いた。
 さっきと同じ奴か? と思いながらも俺はとりあえず受話器をあげた。

「もしもし?」
「……」

 返事がない。
 さすがに二回目なので俺はもう一度だけ問いかけることにした。
 もしかしたら相手側のほうで俺の声が聞きとりにくいのかもしれないと思って。

「もしもし? 聞こえますか?」
「……私メリーさん、今八坂駅にいるの」

 プツン、ツーツー。
 一瞬背筋に冷たいものが走る。
 そういや半裸のままだった。
 俺はとりあえず手短にあった服に着替えると、さっきの電話のことを考えた。
 最近のイタズラ電話にしてはかなり古い手法だな。

 メリーさん。
 誰もが一度は聞いたことあるだろうが、メリーさんは電話をかけてくるたびに相手への距離を着実に縮めてくる謎の存在だ。
 で、最後には必ず相手の背後にいるという電話が掛かってきて、相手を恐怖のどん底へ陥れるというものだ。

 実際にメリーさんなんて存在を見た者はいないが、かといっていないとも言い切れないぐらい有名な名前だ。
 都市伝説としてもかなりメジャーな部類に入っていると思う。
 電話を使うという意味でもイタズラにはもってこいだしな。

 というわけで俺は多少驚きはしたものの、そのまま再び寝る準備を整えた。
 電気を消して、さぁ寝るぞと布団に潜った瞬間、電話が鳴った。

「……」

 さすがに三回目ともなると、こちらが先に口を開くのも癪なので黙って受話器を耳に当てた。
 しばらく相手側も無言だったが、かすかに息づかいが聞こえる。
 俺はそのまま数秒無言で待ってみた、すると――

「……私メリーさん、今玄関の前にいるの」
「っ!?」

 これには心底ビビった俺は叩きつけるように受話器を置くと、部屋中の明かりという明かりををつけて、テレビもつけ、音量も最大にして、布団を頭までかぶりその中に潜り込んだ。
 なんだこれは? イタズラにしては度が過ぎてるんじゃないのか?
 と奥歯をガチガチ鳴らしながら震えていると、四度目のコール音が鳴り響いた。

「ぎやあああああああああああああああああああ!」

 俺はあまりのことに絶叫しそのまま勢いで布団を飛び出し玄関に向ってまっすぐ駆けだし、そして――

 ガチャ。

「よっ! のぶ。私メリーさ……ぶっ!」
「――!?」

 とりあえずぶん殴った。

「ってぇ、何もそこまで怒ることないじゃんかよ……つか普通客人をいきなり殴るか」
「自業自得だろ」

 さっきからのイタズラ電話はこいつの仕業だった。
 久しぶりに顔を見せにきたと思ったら、これだ。
 つい勢いで文句よりも先に手が出てしまったが、そんなことはお構いなしと図々しく人の家に勝手に上がり込み、すでにくつろぎモードになっていた。

「お前も一本どうだ?」
「……」

 コンビニかどこかに寄ってからきたのか、ぱんぱんのビニール袋が傍に置いてあった。
 俺はソレを見てもはや怒る気も失せたので、ソイツを無視して今度こそ寝る体勢に入った。

「じゅるり、ちゅぱ、んむぅ……ぺろぺろ、あむ……じゅるじゅる……れろ」

 ……。

「んんぅ、れろれろ……じゅるり、ちゅぱ、んむぅ…」

 ………。

「ちゅぱちゅぱ、れろ……ぶっ!」

 とりあえず殴った。

「おまっ、さっきから殴りすぎだろ。俺が一体何したってんだよ」
「いい加減にしろ、ここは俺の部屋だ」
「だから?」
「カエレ」

 と言って素直に帰る奴ではないことはわかっていたが、バイトで疲れていた俺はもはや限界だったのだ。
 「まぁまぁ、落ち着けよのぶ」とか言いながら俺をなだめてくるソイツを無視して、トイレにたった。
 戻ってくる頃には奴の姿がなければいいなぁと思ったが、案の定ソイツはまだそこにいた。

「こうやって音を立てながら舐めるのが好きなんだよ俺」
「男のチュパ音なんか聞かされる俺の身にもなってみろ、キモくて眠気なんてふっとんじまったよ」

 チュッパチャップス片手に自分流のおいしい舐め方を懇切丁寧に説明してくる友人に若干引きつつも、ここで改めてコイツが俺の家に来た理由を問いただした。

「で、なんか用かよ?」
「いや特別用ってほどのことでもないんだが……」

 頭をかきながら所在なげに視線を泳がすソイツにイライラしたが、ここで殴ったらまた話が振り出しに戻り無限ループになりかねないので我慢した。

「お前、メリーさんの噂知ってるか?」

 やっと確信に迫ったかと思ったら、何のことはない、俺にかけてきたイタズラ電話の話か。

「知ってるけど、お前まさかこの期に及んでまだ俺をからかおうってんじゃないだろうな」
「ち、ちげぇよ。確かにさっきの電話はちょい悪ノリが過ぎたよ。まさかお前があそこまでビビるとは思わなかったからよ」

 申し訳なさそうに俺から顔を背けながら新しいチュッパチャップスに手を伸ばす。
 袋を丁寧に破いて口に含むと真剣な表情でソイツは言った。

「スク水メリーさん」
「っ!?」

 俺の背筋をこれまで感じたことのない強烈な寒気が襲う。
 よもやそんな単語をこの場で聞こうとは誰が予想しただろうか。
 今や忘れ去られた……いや、初めからなかったかのように扱われるスク水というモノの存在。
 俺もネットの裏サイトでチラリとしか見たことのない産物だ。
 よくできたコラかあるいわ誰かの作り物というのが通説で、実際にスク水なんてモノを間近で見た人物は未だかつていない。
 だから科学が進歩した現代でも都市伝説としてスク水は年齢を問わず世の中を席巻している。
 例に漏れず俺も友人もその中の一人ということだ。

「お、お前まさか、そのメリーさんがスク水を着てるなんて馬鹿げたこと言うんじゃないだろうな。はっ! そんな根も葉もない噂、誰が信じる……」
「……」

 普段おちゃらけた態度なだけに、俺の反応に対し無言でチュッパチャップスを舐め続けるソイツの姿が異様な光景として目に映った。
 俺はゴクリと喉を鳴らして、あくまで平静だという風な態度を装ってもう一度問いただした。

「そ、それでそのスク水メリーさんとやらに気をつけろと注意しにきたわけか、それもこんな夜中にわざわざ」
「……」

 俺の問いに一向に答えようとしないソイツにいよいよ腹を立てた俺は拳を握りしめ、三度目の鉄槌を下そうと、腕を振り上げた。

「ちょ、ちょ待てよ! お前がうるさいっていうからなるべく静かに舐めてたのに何殴ろうとしてんだよ!」
「……」

 そうか、コイツはそういうやつだった。
 話の途中でチュッパチャップスを舐めるのに真剣になるあまり俺の声はまったく届いてなかったのだ。
 さっきまでの張り詰めた空気が馬鹿みたいに弛緩して、俺はその場にどっしりと腰を下ろし何気なくソイツの傍にあったビニール袋の中を覗き込んだ。

「おま、これ全部チュッパチャップスかよ。一体何本買い込んで……」
「百本だ。お前も一本イっとく?」
「カエレ」

 真性のバカだった。

 朝目が覚めると、友人はいつの間にかいなくなっていた。
 食い散らかすだけ食い散らかして、何も言わずに帰る。
 奴がくるまでは正常だった俺の部屋は今じゃチュッパチャップスの残骸でいっぱいだった。

「百本、全部食べていきやがった……」

 論点が多少ズレたが、まさかアレを一人ですべて食いきるとは俺も予想外だったのだ。
 ここで怒ってももはや無意味と判断し、無言で残骸を片付けていると、なにやらテーブルの上にメモらしきものが置いてあるのが確認できた。
 それを拾い上げて軽く目を通してみる、そこには――

『昨日はいきなり訪れて悪かった。それにイタズラ電話をしたのも。でもスク水メリーさんの話は少しでもいいから気にとめていてほしい。最近俺の周りでもよくない噂が飛び交ってるので、一言いっておきたかったんだ。もしお前に何かあったら俺は……。それより今度俺のおごりでチュパバー行こうぜ! あそこはいいぞ、なんせチュッパチャップスが食べ放題だ。軽くトリップしてる奴なんかもいて見てるだけでも楽しいと思うぞ。気が向いたら電話くれよ。まぁ電話がなくてもまたそっちへ遊びに行くけどな♪ あ、そうそう。棚にお前の分のチュッパチャップスを入れておいた。好きなときに食べてくれ。 ひろより』

 キモいメモがあった。
 男にしては可愛げな丸文字でつらつらと綴られたソレを俺はばっちいものでも触るかのように摘み、そのままゴミ箱へシュートした。
 さっき片付けたチュッパチャップスの残骸とともに大きめの袋に詰めて、玄関を出る。
朝の陽光が俺の閉じきった瞼をこじ開けるように差し込んだ。
 近くのゴミ置き場に袋を置いて部屋に戻り、シャワーを浴びて着替えると俺は再び出かける準備をした。
 今日もバイトだ。帰りは昨日と同じぐらいになるだろう。
 そう思うとなんだが憂鬱だったが、生活のためだがんばろうと自分を鼓舞して玄関の鍵を閉めた。

「いらっしゃいませ」

 いつものごとくコンビニでレジを打ちながら昨日のことを思い浮かべる。
 久しぶりに顔を見せたと思ったら、人の部屋を荒らすだけ荒らして去っていった友のことを。
 でもひろが無意味に俺をところへ来ることは一度もなかった。
 俺が何かに悩んでいる時や、不安でたまらない時、いつも決まって奴がふざけたことを言いながら俺の元へやってくる。
 そんなにひろに表では悪態をつきつつも、どこかで感謝している自分がいるのも確かだった。
 まぁもっとも、面と向って感謝の意を述べたことは今まで一度もないが。

「ありがとうございました」

 にしてもスク水メリーさんか。
 これまた突拍子もない噂話だ。
 何度も言うがスク水なんてモノは本来この世には存在せず、ましてやそれをあのメリーさんが着ているなんてちゃんちゃらおかしな話だった。
 存在しないモノを存在しない者が着ている。
 下手な怪談話よりよっぽど質が悪い。B級とすら呼べない。
 そんな話一体誰が信じるというのか。
 バイトに没頭してるうちにいつのまにかその話は頭の隅へと追いやられたのだった。

「……疲れた」

 昨日よりも遅い時間に帰宅した俺はそのままシャワーも浴びずに布団へダイブした。
 このまま寝てしまおうと、心地よいまどろみの中へ埋没しようとしかけたその時、電話のコール音が鳴り響いた。

「はい、もしもし……」
「……ん」

 なんとか受話器をとったが、まだ意識は朦朧としていた。
 かすかに相手が何かを言っているようだが、うまく聞き取れない。
 俺はもう一度問いかけた。

「もしもし? どちら様でしょうか?」
「……私、メリーさん。今ブルセラショップにいるの」

 夢の中へ沈みかけた意識が一気に現実へ引き戻される感覚。
 それとともに押し寄せる怒りの波。
 懲りずにまたイタズラ電話をしてきた相手に対し、俺は怒鳴り散らそうと息を大きく吸い込んだ。

 ガチャ、ツーツー。

 と同時に向こうから一方的に電話を切られて怒鳴るタイミングを見失った。
 けれど、俺の意識はそれで完全に覚醒し、もう一度掛かってくるであろう電話に備えて電話機の前で待機した。

 プルルルルル――

 やはりきた。

「てめぇ! ふざけんのも大概にしろよ! さすがの俺でも昨日今日で同じイタズラに騙されるわけねぇだろ!」
「……」

 受話器をとったと同時に叫んでやったので今度は向こうが驚いてるはずだ。
 俺はしてやったりという顔で受話器を握りしめ、相手の反応を伺った。
 しばらく無言だったが、やがて意を決したのか息を吸い込む音が聞こえた。

「……私、メリーさん。今そこでスク水を買ったの」

 ガチャン、ツーツー。

 ふざけるなよ。
 ひろのやつ何考えてやがんだ。
 この期に及んでまだバレてないとでも思ってるのか? しかも昨日自ら語ったスク水メリーさんのマネまでしてやがる。
 イタズラにしては度が過ぎてる。
 もし次に電話が掛かってきたら今度こそ問いただしてやる。

 そして、俺は臨戦態勢を整えて三度目の電話を待った。
 時計の針の動く音がやたら大きく聞こえる。
 俺の心臓もさっきからずっと警笛を鳴らしている。
 馬鹿な、そんなはずはない。これはひろのイタズラだ。
 そう自分に言い聞かせつつも得たいの知れない恐怖に包み込まれていくのを感じた。
 どっちにしろ、次の電話ではっきりさせるのだ。

 やけに長い時間が過ぎたように思う。
 けれど、電話は一向に鳴る気配を見せない。
 やっぱりイタズラだったんだ。さっき俺が怒鳴ったせいでひろは電話をかけずらくなったんだ。
 ざまぁみろだ。
 俺は晴れやかな心で、電話機の前を離れると、いつものようにたばこを取り出し、一服しようとたばこに火をつけた。

 ブブブブブブブブ

 と同時にどこかで激しく振動する何かの音が聞こえる。
 俺は乱暴にたばこを灰皿におしつけると、その振動音の元を探り出した。
 それは俺の携帯だった。着信相手の名前はひろ。
 ほらみろ、家にかけるのが怖くなって、今度は携帯にかけてきやがった。
 どうせ、謝罪の電話だろう。そう簡単に許すつもりもないが、一応弁解だけでも聞いてやるかと受話を許可した。

「もしもし、のぶか?」
「あぁ、俺だ。お前のイタズラのおかげですっかりご立腹の俺だ」

 いつになく不機嫌さを隠さない俺の声に若干の戸惑いを覚えたのか、ひろは真剣な声で謝ってきた。

「昨日のことまだ怒ってんのかよ。悪かったって。今度お礼になんかおごるからさ。それで勘弁してくれよ」

 何を言ってるんだコイツは。
 俺はさっきの電話のことを言ってるのに、昨日のことだと?
 ふざけるなよ。
 俺は再び怒りを露わにした怒声で話し返した。

「ば、ちげぇよ! お前さっきも昨日と同じ電話かけてきただろうが! ふざけんのも大概にしろよ。さすがの俺でも何度も同じことされると、ブチギレるぞ!」
「おいおい待てって。さっきっていつの話だよ!? 俺は今日たった今お前に電話かけたばっかだぞ。それに家に電話かけた覚えはないし。これ、お前の携帯だよな?」
「……え」

 あやうく携帯を落としかけて、はっとなる。
 今コイツはなんて言った? 電話をかけてない?
 いや違う、かけたのは今だ。しかも携帯に。
 じゃあなんだ、さっきの電話はひろじゃないってことか?
 そんなこと……まさかあるわけ……

 とそこで、家の電話が鳴り響く。

「ひっ!」
「おい? どうした、のぶ? 聞こえてるか?」

 圧倒的な恐怖が俺を襲う。
 今俺は携帯でひろと話をしている。じゃあ今こうして家の電話がかかってるのはどういうことだ?
 少なくとも相手はひろじゃないことは確かだ。
 では一体誰が俺に電話をかけてきている。さっきのイタズラ電話と同じ奴か?
 同じ奴だとしたらひろと同じぐらい馬鹿な脳みそをした奴だ。
 今時そんな幼稚なイタズラにひっかかる人間なんて存在しない。
 メリーさんなんていないんだ。それにスク水だって存在しない。
 まったく馬鹿げた話じゃないか、俺が勝手に勘違いして、話をややこしくしてるだけ。
 そうだ、きっとそうだ。そうじゃなきゃこんな意味不明なことは起こらない。
 確かめるんだ。確かめて今度こそはっきりさせてやる。
 そして俺にそんな電話をかけてきたことを後悔させてやるんだ。

 俺は受話器をとった。

「もしもし?」
「……私メリーさん、今スク水に着替えているの」
「二度とかけてくるな! 誰か知らんが、次かけてきたら声を録音して出るところ出てやるから覚悟しておけよ」

 俺は冷ややかにそう告げると電話を切ろうと、受話器を耳からはずした。
 その途中かすかに女の笑い声が聞こえたが、気のせいにしてそのまま受話器を置いた。

「おい? おい、のぶどうした! なんか怒鳴ったみたいだが……返事をしろ!」
「あ、あぁ……すまん。俺の勘違いだった。お前は悪くないよお前は……」

 再び携帯を手にすると穏やかな声でひろに話しかけていた。
 額に変な汗をかきつつもこれでもう電話はかかってこないだろうと安堵し、しばし我が友人の戯言に付き合ってやろうと決めた。

「さっきそっちの電話鳴ってたみたいだけど、誰だったんだ?」
「大したことない。ただの間違い電話だ。気にするな。それよりお前あのチュッパチャップスなんとかしろよ。俺一人で食える量じゃねぇよ。それに俺チュッパチャップスそんなに好きじゃねぇし……」
「はぁ? 何言ってるんだ、のぶ。あんなにうまいものが好きじゃねぇだと。それはお前の舌がおかしいんだよ。だいたいなぁ……」

 誤魔化す必要があったのかどうかわからないが、俺は無意識にひろを心配させまいとして咄嗟に嘘をついた。
 怪しまれないように違う話題を振って、いつものチュッパチャップス談義にもっていったところで俺はやっと心を落ち着かせることができた。
 しばらくそうやって他愛のない会話を楽しんだ後、ひろとの電話でのやりとりを終了し、俺は汗でべとべとになった服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
 サッパリしたところでたばこで一服しようとも思ったが、なぜかそんな気分にはなれず、俺はボーッと部屋の電話を見つめていた。
 もしここでまたあの電話がかかってきたらどうしよう。
 さっきは訴えるとかなんとか脅しを言ったが、相手の声を録音したからってそう簡単に訴えることはできないだろう。ましてや声だけでどこの誰がこんなことをしてきているのか分かるはずもなく、何の意味もないことは火を見るより明らかだった。
 だから俺はこのイタズラ電話から解放されるための最も単純な手段をとることにした。

「……電話線」

 そう、これさえはずしておけばもう電話はかかってこない。
 どうせ携帯があるんだ。緊急の用事なんかはこっちにかかってくる。
 それに家の電話にかけてくる奴なんて家族以外にそうそういないし、たった一日や二日電話が繋がらなくても不便はないだろう。
 というわけで俺は電話線を引っこ抜いた。

「よし、これで安心だ」

 やっと奇妙な不安と恐怖から解放された俺は布団の上に大の字に寝っ転がる。
 ひろがあんなイタズラをしなければ俺もここまで神経質にならなくて済んだのだ。
 やっぱりあいつのせいだな、うんそうだ。変な噂話までふっかけてきやがって。

「スク水なんてあるわけねぇっつの、はは」

 と笑いが込み上げてきた。

 プルルルルルルルル

 っ!?――

 プルルルルルルルル

 一瞬何が起こったのか理解できなかった。
 込み上げた笑いは一気に引きつり、代わりにえずくような声が喉の奥から漏れ出る。
 意味がわからない。だってさっき電話線は抜いた。
 だから今電話が鳴るはずなんてないのだ。なのになんだこの状況は、なぜ電話が鳴っている?

 プルルルルルルルル

 まるでこの世のものではないものを見るかのように俺は部屋の電話を凝視する。
 視線を電話線のほうにもっていくが、幻覚じゃない、完全に線は途切れている。
 なのに、電話はこれでもかというほど自己主張の激しい音を響かせる。
 出たらダメだ。これは出たらダメな類の電話だ。でもまさかそんなことあるわけ――

「も、もし…もし…?」

 確かめずにはいられなかった。
 出たらダメと分かりつつも確かめなければ正気を保てそうになかった。
 だから俺は電話にでた。受話器を握りしめて相手が誰なのかを確認する。
 そう、たったそれだけでいい。それではっきりさせるんだ。これは何かの間違いなんだって……。

「私、メリーさん。今坂下公園にいるの」

 ガチャン!
 今までよりもはっきりとした女の声。
 しかもかなり近い。坂下公園なんてアパートからすぐそこじゃないか。
 なんだコレハ? 新手のドッキリカ? 俺は今部屋にしかけられた隠しカメラか何かに撮られているのか?
 それならそうと、はやくネタばらししてくれ。
 頭がどうにかなりそうだ。

「はぁはぁ……そうだ、確かめなきゃ……」

 混濁した意識の中で、俺は今自分がすべき最善の方法をとるため、震える手で私服に着替える。
 そうだ、もし本当にこの電話の相手があのメリーさんならもう一度電話をかけてくる。
 それに出てしまったら今度こそ終わりだ。自分の背後に音もなく現れたメリーさんに俺は――

「はやく、はやく、確かめなきゃ……」

 ふらついた足で玄関を出る。ひんやりと冷たい空気が肌を刺す。
 公園にはたしか、いまだに撤去されていない古い公衆電話があった。
 きっとそこからかけてきたに違いない。そうだ、確かめるんだ。メリーさんより先に俺がメリーさんを確かめるんだ。

 吐きそうな気配を無理矢理押し込めながら、公園に向ってひたすら歩を進める。
 夜も深まった頃なので、人影なんてあるはずもなく、いるとすれば恐怖に引きつった顔した俺か、すがすがしい顔で俺に嫌がらせをするまだ見ぬメリーさんか。
 どっちにしろ、発見次第ぶん殴る。
 俺をここまでこけにした奴を見つけ次第殴る。それでこんな意味不明な状況にケリをつけてやるんだ。
 待ってろメリーさん。今すぐそこへいってやる。お前が来る前に俺が――

「……」

 公園にたどり着いた。
 辺りを見渡すが人っ子一人見つからない。
 そうだ、あの公衆電話はどこだ? 確か公園の隅の方に……あった。
 俺はゆっくりとその公衆電話のほうへ近づいていく。
 だがそこにはぽつんと古びた公衆電話が一台無造作に残されているだけだった。

「誰もいない……?」

 もう俺の家に向ったのか?
 だとしたらここに来るまでにすれ違っているはず。
 ということはまだこの公園のどこかに潜んでいるということだ。

「出てこいよ!!」

 俺は叫んだ。
 今更怖じ気づく俺ではない。こうなったら相手の姿を確認するまで俺はここを一歩も動かない。
 そう決めて、公園のどこかに隠れているであろうメリーさんに向って怒鳴りつけた。

「どこのどいつか知らないが、いい度胸してやがる。一体俺に何の恨みがあってあんな電話をかけてきやがった。まぁもっとも今更謝っても許す気はさらさらないがな。さぁ分かったら大人しく姿を――」

 リリリリリリリン

 ありえない音に後ろを振り返る。
 一体何の冗談だこれは。
 ここは公園だぞ。電話の音なんて聞こえるはずないじゃないか。

 リリリリリリリン

 でも確かにソレは鳴っている。
 俺の目に映るソレはまるで全盛期の頃のようにけたたましい音を高らかに歌い上げている。

「嘘だろ、おい……はは、なんだよこれ。わ、わけ……わかんねぇよ……」

 ソレは間違いなく今はもう誰も使いそうにない古ぼけた公衆電話だった。
 恐る恐る近づきながら、俺はその公衆電話を隅々まで確かめる。
 そして俺はそこで恐ろしい事実に気がついてしまった。

「こ、これ、電話線千切れて――」

 リリリリリリリリン
 リリリリリリリリン
 リリリリリリリリン

 ダメだ、足が動かない。あまりの恐怖で俺はその場からまったく身動きができなかった。
 まるで金縛りにでもあったかのように、意識ははっきりしているのに体だけが言うことを聞かない。
 かすかに右腕だけが動く、でも腕が動くからってこの状況は変わらない。
 そうだ、俺はもう逃げられない。得体の知れないものに目をつけられて訳もわからないうちにこんなことに。
 もう嫌だ。はやく楽になりたい。今この瞬間何者かに襲われて死んでしまえるならいっそそうなってほしいと願うぐらい俺はパニック状態に陥っていた。

 だから、俺がソレに手を伸ばしたのも当然と言えば当然のことだった。

「も、もしもし?」

 鉄の錆びた臭いが鼻をくすぐる。
 もう何十年も使われていないであろうソレを耳に当てて最後の審判を待つ。
 次に返って来るであろう返答は分かりきっていた。だから俺はソレを耳から外し、ゆっくりと首を後ろにまげて――

「私、メリーさん。今、貴方の目の前にいるの」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 叫び声を上げたと同時に俺の体に自由が戻り、俺は慌ててその場から逃げ出した。
 逃げ出す時、目に飛び込んできた映像はとても人には言えそうにないショッキングなものだった。

 だって俺が見たのはまごう事なきスク水――。

 そう――胸にひらがなで『めり~さん』と書かれた名札を貼り付けたスク水の少女だったのだから。

「――次はお兄ちゃんのところにいくから」



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都市伝説『スク水幼女』
「マジ、まじこの目で見たんだってば!」

 夏もそろそろ終わりに近づいた8月のある日。
 いつものように仲間達と深夜のコンビニ前でチュッパチャップスをチロチロと舐めていたらそのうちの一人が突然、おかしなことを語り始めた。
 最初は俺も、いつものチュッパチャップスの舐めすぎによる幻覚症状かと疑ったが、どうやらそうではないらしい。

「オマエ、またチュッパチャップスにヤラレたんじゃね?」
「1日100本も舐めてりゃそりゃ変なモノもみるわな」
「ちげぇーって! マジ、モノホン! 俺だって幻覚ならむしろそっちのほうがありがたいぐらいだぜ!」
「……」

 幻覚を見ることに定評のあるソイツが言うのだから、多少なりとも信憑性はあるのかもしれないと、否定を続ける他の仲間達を無視して、俺は冷静にソイツの話を聞いてみることにした。

「で、もう一度正確にその見たモノの正体を言ってみろよ」
「おお! たけしはやっぱ分かるヤツだな! 俺はオマエなら絶対信じてくれっ――」
「戯れ言はいいんだよ。さっさとしゃべれ」
「……ひ、わ、分かったからそんなに怒らないでくれ、オマエ顔超こえぇよ」
「この顔は生まれつきだ」

 で、ソイツが言うには――

「スク水幼女」
「……」

 その単語を出した途端、さっきまで冗談交じりに笑い合っていた仲間達も急に静まりかえった。
 それほど、この街ではその単語はタブーとされているということだ。
 ましてや、今の時代、スク水なんてものは古代の産物でしかなく、それ自体がすでにこの世に存在しないものなのにそれを身にまとった幼女が、目の前に現れたというのだ。
 そんなものを目にする時点でまずおかしいことに誰もが気付くだろう。
 だからこそ、みんなほんとは心の中で恐怖していたのだ。それを隠すためにみんな必死で否定し続けている。認めた時点で自分にも見えてしまうかもしれないという恐怖に抗うために。

「ば、バカか? すすす、スク水幼女なんて都市伝説に決まってんだろ?」
「そ、そそうだよ。そんなものいるはずないじゃないか」
「あぁ、俺だってそう信じたい。いやむしろ今でも信じられない。あんなものをこの目で見ちまうなんて、くそ……たけし、俺死ぬのかな?」
「……」

 いつもの楽しいダベリの時間のはずが、ソイツのせいで一気に萎えムードだ。
 これじゃあ、いくらチュッパチャップスを舐めたところで気分は高揚しない。
 こうなったら、この気分を害した原因を潰すしか方法はない。
 俺はおもむろに口にくわえていたチュッパチャップスをキュポンという音を立てて取り外すと仲間達にこう言った。

「よし、そのスク水幼女ってのがほんとにいるかどうか確かめに行くか」
「っ!?」
「な、なに、言ってんだよたけし! まなぶの言うこと聞いてなかったのかよ!」
「そ、そそうだよ。幻覚マスターのまなぶが本物だって言うんだから、きっと実在するんだよ」

 さっきまで散々否定していたくせにコイツらは……。
 まぁ期待しちゃいなかったが、まだ自分の目で確かめていないモノにびびる程度のヤツなら連れて行かない方がマシだ。
 かえって邪魔になりかねないしな。

「じゃあ、俺一人で行ってくるわ。おい、まなぶ。そのスク水幼女が出たっていう場所を教えろ」
「で、でも……たけし」
「さっさと言え、俺はそこまで気が長いほうじゃないんだ」
「わ、わかったよ。そんなコワイ顔すんなよ」
「だからこの顔は生まれつきだと何度言ったら……」

 まなぶに聞いた場所は、案外近くにあった。
 ビビりながらチュッパチャップスを舐め続ける仲間達をコンビニに残して、俺は一人その場所へ向った。
 夜も遅いので、出会う人影は一切なし。
 俺の歩く足音だけがやけに響いて不気味だった。
 あまりにも静かすぎてキーンと鳴る耳の奥に苛立ちを覚えながら目的の場所にたどり着く。

「ここか……」

 鬱蒼と生い茂る雑草。
 もう何十年……いや何百年も手入れされていないと思わせるほどの荒れ地ぶりに多少は恐怖を覚えつつも俺はその場所をじっくりと見渡した。
 昼間見たら特になんてことはない。ただのプールの跡地だ。
 だが、こんな夜も更けてから見るソコは、確かにまなぶの言うように何かがいそうで不気味だった。
 幽霊? いやそんな実体があるのかないのかわからないものに出会ってもただ恐怖だけが残るだけでそんなのは遊園地のお化け屋敷で体験する感情となんら変わりはない。
 たけしが見たというスク水幼女のほうがそんな幽霊なんかより遙かに恐ろしいモノだってことは俺だって重々承知している。
 理解できない怖さより理解できる怖さの方が人間にはダメージが大きいのだ。
 まなぶだってきっとそうだったに違いない。あるはずないと思っていたモノが突然現れたのだ。
 幻覚では味わうことの出来ない感情の起伏。恐怖以上の何かをまなぶはきっと感じたに違いない。
 それを少しでも和らげてやるには俺が証明するしかないのだ。

「スク水幼女なんてモノがただの都市伝説だってことをな!」

 背中を伝う汗に嫌な感触を覚えつつも俺は恐怖を振り払うために叫んだ。
 すると、どこからともなくシュコーシュコーとまるで何かの穴を水が通り過ぎるような嫌な音が聞こえてきた。

「な、なんの音だ」

 もちろん振り返ったところで何もいない。
 それどころか、辺りをくまなく見渡してもそれらしき人影すら見えなかった。
 でも、その音は常に自分の耳の奥から響いてくるのだ。
 そう、それこそまるでスク水の排水機構から流れ出る水の音みたいに。

「く、くそ、なんて気持ちの悪い音だ。誰かのイタズラか? だとしたらタダじゃすまさねぇぞ」

 俺は必死に草をかき分けて音の鳴る物体を探した。
 あまりにも必死だったのでそこがプールの跡地だったことも忘れて俺はその段差に気付かず、足を滑らせてプールの中へと落ちてしまった。
 そこは本来なら大量の水が張られていて、こんな暑い夏の夜ならきっと涼しいこと間違いなしの場所だったが、あいにく今はただの荒れ地。もちろん水なんて張られてるわけもなく、ただの堅い地面に派手に尻餅をついたのだった。

「いってぇー、ちくしょお。なんで俺がこんなめに」

 立ち上がってみると、思ったより深かったのか、それとも暗闇と生い茂る雑草のせいでそう見えるのか、さっき転げ落ちてきた場所がやけに遠かった。
 これは下手するとここから上がるのさえ難しいかもしれないとそう思わせるには十分な高さだった。
 ひとまず、俺はプールの中を適当に歩き回り、どこか上に上がれそうな場所を探すも、どこも雑草のせいでつかみ所がなく、上に上がるには困難を極めていた。

「仕方ない。ここは癪だがアイツらに電話して助けてもらうか……」

 ポケットから携帯電話を取りだして、仲間の一人に電話をかけてみる。
 プルルルル、プルルルル、プルルルル。
 三回のコールのあと、受話可能の状態になった。
 俺はすかさず――

「おい? ちょっとヘマしちまって、身動きがとれねぇようになったんだが、オマエらのうちの誰でもイイからロープかなんか持ってこっちへ来てくれねぇか?」
「……」

 やけに長い沈黙。
 もしかして繋がっていないのか? ともう一度電話に向って話しかける。

「おい? 誰でもイイから、ロープか何かを……」
「シュコー」
「っ!?」
「シュコーシュコー」

 俺は慌てて携帯から手を離した。
 そういや、プールに落ちてからはあの嫌な音はしなくなったなと油断していたら、コレだ。
 一体どうなってやがる。俺はもう一度携帯のディスプレイを確認する。
 そこにはしっかりと仲間内の一人の番号が表示されていた。
 間違い電話でもなんでもないことは明らかだった。

「オマエらふざけてんならいい加減にしないと、俺も穏やかじゃいられねぇぞ」
「シュコーシュコー」

 そう、脅してみても矢張り聞こえるのはあの嫌な音。
 俺はその音をこれ以上聞くのに耐えきれなくなって電話を切った。
 これでここから脱出する算段を一つ失ったわけだ。

「さて、どうするか」

 ここに来てもう一度冷静さを取り戻すべく、俺は予備のチュッパチャップスに手をつけていた。
 袋を丁寧に破り、口にくわえる。ほどなくしてちゅぱちゅぱと心地よい音が口内から耳の奥を伝って響いてきた。

「あぁ、最高だ。この音、とろけちまいそうだ」

 軽くエレクチオンしたところで、もう一度プールの中を散策する。
 やはりどこからも自分で上がることは不可能なようだ。
 これは朝までここで助けを待つしかないのかと諦めかけたその時、何かキラリと光モノが目に飛び込んできた。

「ライトか! もしやここの管理者の見回りとかか? なんでもいい。これで助かった!」

 俺はその光があるほうへ向って全速力で走った。
 そして光が近づいてきた頃合いを見計らって俺は大声で叫んだ。

「おおーい! 助けてくれ-! ちょっと足をすべらしちまって、プールにおっこちまったんだ!」

 俺の声が届いたのか、光がまっすぐこっちに向って進んでくるのか分かった。
 これで助かる。ははは、やっぱ何にもいなかったじゃないか。
 まなぶのやつバカにしやがって、まぁアイツの幻覚症状は今に始まった事じゃないしな。
 これに懲りて、少しチュッパチャップスの本数を無理矢理減らしてやろう。
 うん、いい機会だ。俺がもう一度ヤツにキツく――

「大丈夫ですか、お兄ちゃん」
「あぁ、すまねぇたすかっ――ぎやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 そこには間違いなく、スク水を身にまとった幼女が俺を見下ろすようにして立っていた。
 そして、俺の意識はそこで途切れた――
 気付いたときには病院のベッドにいて、俺はその時にあったことをスッカリ忘れてしまっていた。
 これはあとから仲間に聞いた話なんだが、俺は水も何も張られていないプールの中でびしょ濡れになって倒れており、周りには何者かが食べ散らかしたと思われるチュッパチャップスの残骸が転がっていたという。
 俺はそれを聞いて背筋にゾォーっとするようなものを感じ、それ以上深く考えるのはやめることにした。
 それ以来、俺たちの中でその話題を口にする者はいなくなった。
 もしかしたら、また別の街で騒動を起こしているのかもしれない。
 
 そう、もしかしたら貴方の街にもスク水幼女が……。



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絵描きのおじいさんとその孫 その2
 床や壁にこびり付いて消えることのないさまざまな色の絵の具。
 油絵の具や墨汁の匂いが染みついた空間。
 彼はそんな部屋の片隅で今日も一人で一心不乱に花瓶に生けられた一輪の名もなき花を描いていた。
 彼のキャンバスには儚くも美しく咲き誇る花が見事に描き出されていた。
 けれど、その絵は誰の目に止まることもなく一日と経たずしてこの世から消えてなくなってしまう。
 なぜなら、それは――

「もったいないでしょ。せっかく貴方が一所懸命に描いた絵なのに、破り捨てちゃうなんて」

 音も立てずに部屋に入ってきた一人の女性。細いフレームの眼鏡を指でクイっと持ち上げながらゆっくりと近づいてくる。
 突然の来訪者に驚いた彼は破りかけの絵をその手にしたまま呆然と立ち尽くしていた。
 やがて我に返った彼は再びその手でさきほどの名もなき花の絵を最後まで破り裂いてしまった。
 それを見て呆れたようにため息をつく女性。
 彼はなんだが、罰が悪くなってそのまま何も言わずに部屋から出て行こうとした。

「待ちなさい。自分で出したゴミは自分で片付けていきなさい」

 やや冷ややかな口調でその女性が言い放つ。
 彼は一瞬迷った後、言われたとおりに引き返し、自分で破り裂いた絵を綺麗にかき集めて部屋に設置されているゴミ箱へシューティングした。
 その時、彼の胸に今まで感じたことのない痛みがこみ上げてきた。その痛みの元が一体何なのか今の彼には理解できなかった。
 女性は胸をわずかに押さえる彼の仕草を見て満足したのか、小さく笑顔を零して部屋を出て行ってしまった。
 彼は再びその場に呆然と立ち尽くし、しばらくそのまま女性が出て行った部屋の出口とさきほど自分の絵を捨てたゴミ箱を交互に見つめるのだった。
 彼の胸の中に小さな痛みと小さな笑顔が残った。
 それは彼にとって初めての他人と共有する思い出だった。

 その日からというもの、彼が一人で花の絵を描いてると決まってあの眼鏡の女性が現れるのだった。
 その女性が彼の前に現れる時間は決まって夕暮れ時だった。
 鮮やかなオレンジ色の光が彼と女性を優しく包み込んで、まるでどこかの幻想の世界を思わせる雰囲気だった。
 最初は戸惑っていた彼だが、いつしかその女性を待ちわびるように今まで以上にたくさんの花の絵を描くようになった。彼が描いた花の絵は今では部屋中を埋め尽くすぐらいそこらかしこに溢れかえっている。
 それを見て女性は言った。

「綺麗なお花畑ね。絵に描かれた花なのにまるで本物の花のような素敵な香りと色遣いだわ。貴方、今までこんなにたくさんの花を描いて残したことはあるかしら?」

 その問いかけに彼は首を横に振った。今までは一つ完成するたびに何かが気に入らなくて破りすててしまっていた。誰に見せるわけでもないし、どこかに出展するわけでもない絵なのでそれでいいと思っていた。でも目の前の女性が現れてから彼は変った。初めて自分の絵に感情を抱いた。
 そう、自分以外の誰かがいて初めて抱ける感情。

「ぼ、僕はもっとたくさんの人に自分の絵をみてもらいたい」

 今まで誰にも言えなかった、自分の本当の気持ち。何枚描いても何十枚描いても何百枚描いても自信なんて生まれなかったのに。今も本当は自信なんてないけど、でも見てもらいたいと思った。
 その女性に言われて自分の絵をゴミ箱へ捨てるとき感じた気持ち。胸の中にいつまでも残った小さな痛み。それが彼を目覚めさせた。
 本当は誰かに見てもらいたかったのだと。見てもらえる相手がいないから自分の技術のなさのせいにして、描いては破り捨てていたのだと。
 それでも自分から誰かに積極的に絵を見せに行く勇気なんてなくて、もし仮に誰かに見せることができたとしても下手くそだって言われるのが怖くて。そんな弱い自分を必死で隠すように、彼は部屋に閉じこもるようになった。
 でもそれも今日で終わりを告げる。彼は花の絵でいっぱいになった部屋から足を前へ踏み出した。

 そして向かった先は――

「これでよし。そっちはどうかしら?」
「はい、ぜんぶ所定の位置に飾りました」
「うん、圧巻ね。一枚一枚の小さな花の絵が寄り集まって大きな一つの花の絵になる。
 よく頑張ったわ。
 枚数にしておよそ一千枚。これだけの花の絵をたった一人で最後まで仕上げるんだもの。見直したわ」
「そんなことありませんよ。本当は今までだってこれぐらい描いていたんです。でも今までは出来たらすぐに破り捨ててしまっていたから……」

 バシンと背中を叩かれて、彼はピンっと背筋を伸ばした。
 すると、彼の目に名もなき大きな花の絵が堂々とこちらを見下ろすように飛び込んできた。
 彼は笑った。女性も笑った。そしてもっと多くの笑顔が花咲くだろう。
 だって、彼の名もなき花は今咲いたばかりなのだから。

◆◆◆

「あれ? おじいちゃんが虹絵以外を描くなんて珍しいね」
「ば、ばかもん! ワ、ワシだってたまには普通の絵も描くんだからねっ!」
「……」
「ごほん、ん。これは紫陽花の花じゃ」
「見れば分るよ、それぐらい。なんで急に紫陽花なんて描く気になったの?」
「ワシの知り合いに花の絵を描くのが大好きなヤツがおってのぅ。
 急にそいつのことを思い出して、ワシも何か花の絵を描きたくなったんじゃ。
 そしたら庭先にちょうど紫陽花が咲いておったから、これ幸いとペンを走らせた次第じゃ」
「ふーん。そのおじいちゃんの知り合いって人は今も花の絵を描いたりしてるの?」
「残念ながらヤツの絵を見ることは二度とないだろうて。なんせヤツはもうここにはおらんからのぅ。
 見たこともない花の絵を描くのが上手なヤツだったわい……」
「ごめん、なんか変なこと聞いちゃったね」
「ば、ばかもん! 何を勘違いしておる。まさかそいつがおっちんだとか思ってるんじゃなかろうな!?」
「え? 違うの?」
「早とちりすぎじゃ! ヤツはまだまだピンピンしとるわ! 日本にもうはおらんと言うただけじゃ。今は花の都パリで第二の人生を送っておるわ」
「ま、紛らわしい言い方しないでよ。僕はてっきり……」
「まぁでも正もそういう気遣いが出来るような年になったってことか。ワシはちょっぴりうれしいぞ」
「べ、べつにそれぐらい人として当たり前のことだよ……」
「そんな正に良いことを教えてやろう。人と人との出会いは時として大きな財産となる」
「だから人付き合いは大切にしろってことでしょ? それぐらい分ってるよ僕にだって」
「あーもー、なんでお前はそう結論を急ぐんじゃ。まだワシは最後まで話しておらんだろう。
 そんなに慌ててどこへいくんじゃお前は」
「べ、べつにどこにも行かないけど、おじいちゃんの話は長くなりすぎてよく分らないときがあるんだよ」
「そうか、それはこちらの不手際じゃったな。
 では今日は手短に話そう。いいか良く聞くんじゃ正。
 さっき話したヤツも実は昔人付き合いがとても苦手なヤツじゃった。
 けれど、突然現れた一人の女性によって、ヤツは自らの殻をぶち破ったのじゃ」
「つまり童貞を捨てて、大人になったってことだね」
「まぁなんて破廉恥な! って違うわ! いやまぁ、そういうのが自信に繋がるときもなきにしもあらずじゃが、ワシが言いたいのそこじゃなくてだな。
 つまり人は自分以外の誰かに出会うことで運命を切り開いていけるとそう言いたかったのじゃ。正にはまだ実感できないだろうが、大人になるつれて分ってくるものじゃ。
 もしかしたら正も既にそういう自らの運命を変えるような出会いを果たしているかもしれないぞ」
「それならもうしてるよ、いっぱい」
「なんとっ!?」
「今日も新しい人と知り合ってこれから狩りに出かけるところなんだ。やっぱ大切だよね、出会いって!」
「狩り? これまた野性的な知り合いじゃのぅ」
「なに言ってるんだよ、おじいちゃん。ネトゲの話だよネ・ト・ゲ」
「なんとっ! またお前はそんなデジタルなものを!」
「おっと、そろそろ約束の時間だから狩りに行ってくるね。それじゃ!」
「ちょ、正、まっ――」
「……」
「まったく、正ときたらワシの話を一向に理解せん。
 ネットでは顔も声も仕草も分らないし、ましてや心なんてものはそう易々と伝わるもんじゃなかろうに。
 そんなもので出会いを経験するなど言語道断じゃ。ワシはデジタルなんぞ一切認めんからな!」

「おっ? このSAIってツールなかなか滑らかな線をひけるではないか。
 ふぉふぉふぉ、これはフォトショよりも使いやすいかもしれんぞ。よしライセンスを購入しておこう。ポチっと。
 ふぅ、クリック一つでお買い物。便利な世の中になったのぅ…………あれ?」

 おじいちゃんのパソコン画面にはSAIによって綺麗に彩色された紫陽花の花が表示されていたとさ。めでたしめでたし。



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